中学校の校則
中学校の校則を見せてもらった。
靴下の色、靴は白、制服の下の服は派手でないもの、スカートの長さ、髪留めは派手でないものなど事細かく記載がある。中学校の有り様は、ほんと、変わっていない。
「型から入る教育」という言葉がある。
まさに中学校の校則は、型から入る教育の典型だろう。
型から入る教育をすべて否定はしないけれど。
形にこだわる場合は、なぜこの形が大事なのかという具体的で豊かな内容が伴うことが大事だと思う。
その形にこだわる理由がない場合は、内容の伴わない形だけの押しつけになる。
物事には、内容と形式がある。形式だけが求められるのはいかがなものだろうか。
形式美を求める場合には、その形式美がなぜ必要なのかを豊かに語る必要がある。
たとえば、茶道の作法には、どうしてそういう動き方やしぐさをするのかという点に豊かさがある。
茶道の所作には、歴史の中で試されてきた美の形が考え方とともに生きている。
この場合は、まさに内容があり形式がある。
豊かな内容がある場合には、型から入る教育にも大きな意味があるだろう。
でも、中学校の校則に書かれている服装についての決まりとは一体何だろうか。
この決まりには、茶道のような豊かな内容があるのだろうか。
ないように思えてしかたがない。
意味のないことを強制されることほど、人間の尊厳を傷つけ、意欲を削ぐものはない。
なぜ、ここまで規則をつくって、しばる必要があるのだろうか。
「服装の乱れは心の乱れ」という記述があった。
しかし、服装の統一は、自由の剥奪でさえある。
普通、多くの大学には、制服がない。制服がないから誰も服装について何も言わない。何もいう必要がない。服装と学生の学問とは何の関係もない。それが、本当の姿だろう。
もし、社会のルールとして、校則と同じように服装のあり方を事細かく国民に求めたら、国民服を強制している国以上にがんじがらめの国になってしまうのではないだろうか。
服装の乱れは心の乱れだといって、服装のあり方を国民に求め、服装のルールを破ったものには、法律によって刑罰を与える国というのは、恐怖の王国だろう。
学校の制服に対して行われている事細かなルールは、社会一般に存在しているルールとは、まったく性格が異なるといわなければならない。
教育や学問にとって、自由は空気のように大切なのに、規則によって子どもたちから自由な気質を奪うことになったら、まさに本末転倒になってしまう。
日本社会が、閉塞感でいっぱいなのは、まさに自由にものが考えられないようながんじがらめさから来ている側面がある。意欲の湧かない人間を作る上で、校則が一役買っているのだとすれば、校則のあり方を見直す必要があるだろう。
労働者の中には、制服で仕事をしている人がいる。この場合、制服を必要としているのは、会社であったり公務労働をおこなっている機関であったりする。
仕事上必要な制服は、雇用主が労働者にそれを貸与して着せている。
警察官の制服しかり、警備員の制服しかり、自衛隊員の戦闘服しかり。安全管理を行っているさまざまな職業しかり。
制服とそれに伴うルールを細かく作りながら、すべてを自費でまかなえというのは、労働の世界には存在しないのではないだろうか。
サラリーマンや議会では、男性の場合、背広の着用が義務づけられているケースがある。しかし、この場合、服装の統一までは指図されない。したがってどのような色の背広なのかは個人の自由に任されている。そういう場合、制服とは呼ばない。
おそらく中学校の校則は、日本の多くの学校の文化をなすものだろう。
この文化がほんとうに是か非か。
この問題を自由に討論する時代は、そんなに遠くない時代にやってくるのではなかろうか。
「こんなルールを決めるからいじめが起こるんじゃない?」
こういう意見も聞こえてくる。
この意見にうなずく自分がいる。
さて。
単車復活。修理完了。めでたしめでたし。
単車屋(自転車屋)さんがなくなったので、パンクをした単車を取りに来てくれるお店がなくなった。
山の中で単車がパンクしたらJAFを呼ぶ必要があるかも。
でも単車と言ったら来てくれないかも知れない。