学問は人生の伴奏者

雑感

娘が20歳になり成人式を迎えた。朝から会議があって、そのあと事務所に行き、新しいプリンターを設置してお昼に自宅に戻った。車を家の近くの路肩に置いて玄関前に行くと、着物姿の娘がいて、妻とおばあちゃんも立っていた。
「今帰ってきたんよ」
妻がそう言い、写真を撮ろうとしていた。記念写真を何枚か撮った後で、和室に移動してさらに何枚か撮った。

成人式の会場の総合文化会館前には、すでに多くの人が集まっていた。娘の同級生の父や母もたくさんいて、久しぶりの挨拶を交わした。中学校の卒業から5年経つと誰が誰だかよく分からなかった。面影に印象のある子が何人かいて、言葉を交わした。

2時に成人式が始まった。
挨拶が続く中で会場を見渡した。
大人は、大人目線で成人に対して言葉を贈る人が多い。ぼくは20歳の頃を思い出していた。人生の中でどのような職業に就くのかという確固とした見通しなどなかったように思うが、すでにその頃は、学生をしながら民青同盟の専従者という位置にいた。20歳の頃、和歌山市内に住んでいたので、かつらぎ町の成人式には出ていない。4年間住んだ和歌山市にぼくはいた。

未来がどうなっているのか。20歳の頃にはまだ考えられない人が多いだろうし、社会がどのようなものなのか、知らない若者の方が多いだろう。まだじりじりとした緊迫感などない中で、学生生活を送っている人や社会人になろうとしている人、まだ大学に入っていない人、いろいろな状況に置かれている人が多いだろう。

そういう若者に対して、何を言葉として贈るのか。考えて見ると難しい。会場を見ていて、自分が人生の中で獲得した学ぶことの意味を伝えたいという思いが湧いてきた。
20歳の若者には学問をしてほしいと思う。
学問。
それは、問いを立てる力を身につけ、物事を探求するということを含んでいる。問いを立ててそれを探求するということは、問いを追いかけてその道を歩くことを意味する。学問には、自分の力で心理に分け入って、探求し続ける「道」=プロセスがある。
人生も定まった道がある訳ではないので、学問を探究するという努力は、自然に人生に寄り添うものになる。

人生の伴奏者としての学問。それは、大学生の特権でもなければ、研究者や学者の特権でもない。学問は、問いを立て探求しようとする全ての人々に対して開かれている。
問いを立てる力は、全ての前提に対しても問いを立てることになる。学問を探究していると、当たり前とされている前提の問題、常識とされている問題にも、問いを立てることになる。実は、これらのことに対して問いを立てることができるようになるかどうかが、勉強と学問との分かれ道になる。世の中に溢れている知識を学ぶという行為は、学問なしに実現できる。こういう学びは、知ればおしまい。一件落着。ここに知的探求というミステリーは存在しない。
学問は、確定したと思われている物事に対しても問いを立てる。この問いが、新しい道を開く。問いを立てる力は、ミステリーと同じように人々を未知なる世界にいざなっていく。

人生はたった1回。ならば、自分の人生に多くの問いを立てて、それを探求し、自分の力で道を切り開きながら歩く。人生の伴奏者として、学問する姿勢をもって歩み始めると、自分の経験や学習が、自分の中に多くの実りを残してくれる。それは、自分の内なる力として生きる。この多くの実りが次の問いへと繋がっていく。

大学生であろうがなかろうが、問いを立てる力を培って、人生を歩いて行ってほしい。道に迷ってもいい。探究心があれば活路は開かれる。問いを立てる力。人生の伴奏者としての学問。それが人生を豊かにすることを信じて、生きてほしい。

今日はこんなことを妄想していた。
成人、おめでとうございます。


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雑感

Posted by 東芝 弘明