量から質への転化

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「量から質への転化」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
弁証法というものの見方、考え方に親しんできた方には、なじみの深い言葉になる。
水の温度を上げていくと水は水蒸気となり気化しはじめる。さらに温度を上げていくと水は沸点に達し、一気に水蒸気となる。このように液体から気体に変化することを「量から質への転化」として説明することが多い。
液体から気体への「量から質へのへ転化」は、分子運動のレベルで説明すると分かりやすい。水の場合でも他の液体の場合でも、分子の運動が一定の量を超えると、液体であることを維持できなくなり気化しはじめる。分子内の運動が高まると熱が発生する。ガスコンロで水を熱するというのは、分子レベルでいうと熱を加えることによって、水の分子運動を活発にすることにほかならない。分子運動が一定の量を超えると、質的な変化──この場合は、液体から気体への変化をうみだす。
沸点は、物質によって違ってくる。固体-液体-気体の状態になるかどうかは、物質の分子の運動の状態によって変わってくる。
昨日、あさから散髪に行った。髪の毛が長くなってくると、ある日を境に非常にうっとうしくなってくる。髪の毛が一定の長さになるまでは、簡単なセットで髪の毛をまとめることができるのに、長くなってくると元来の巻き毛が幅をきかせてきて、髪の毛がまとまらなくなる。
巻きはじめるかどうかは、髪の長さに関係がある。
散髪に行く前に頭に浮かぶのは、「量から質への転化」という言葉だ。
ある日突然、髪の毛がうっとうしくなる。この日が質的な変化の境目だろう。
若いときに、「量から質への転化」を禿頭で説明されたことがある。
髪の毛が1本抜けようと100本抜けようと、禿にはならない。しかし、抜ける毛と生えてくる毛とのバランスが崩れて、抜ける度合いが高まってくると、それは量的な変化の始まりだといえる。そして、生える毛と抜ける毛のバランスが崩れた後、抜ける速度が高まってきて地肌が明らかに見え始めると、人は「あ、頭が禿はじめている」という。
ここにも「量から質への転化」がある。
最近は、娘に露骨に「ハゲー」と呼ばれるようになった。悲しいが現実なんだからやむを得ない。
老いは体から始まる。ハゲというカタカナで発音される言葉が、自分に迫ってくると、その言葉の横には「老い」という名の控えめな老人が、灰色の服を着て、長く白いあごひげを伸ばして立っているのを感じる。
さて。
ここんところ、一度読んだと思われる本をもう一度読んできた。
新鮮である。とれたての魚のように。読み進んでいても本を読んだという既視感がほとんどない。線まで引いている。書き込みまでしている。しかし、何という新鮮さだ。
短い人生の中で、感銘を受けた本を何度も読み返していくがいいのか、それとも次から次へと新しい本に手を伸ばしていくがいいか。
煉瓦を積み重ねて高い塀を作るように読んだ本を自分の胸の中に積み重ねていきたい。しかし、どうも記憶は曖昧模糊としてくるので、読んだ本の記憶が、自分の胸の中に煉瓦のようには積み重なっていかない。砂浜で、砂の山を作るように、潮が満ちてくると洗い流されて、次第に山がなくなっていく。
読書というものは、そういう性質のものなのかも知れない。
蓄えられた知識やものの見方は、他人に話さないと消えるのが早い。使われない記憶は、賞味期限が切れるのが早いということだろう。
克明にノートを取って、学んだ頃を記していけば、消えようとする記憶を少しは留める力になるかも知れない。でもそんなことをしている時間がないことが多い。
ただ思うことがある。20代で読んだ本を50代の今読めば、自ずから感想が違ってくる。20代の自分と50代の自分では、立っている位置や社会的な存在が違っている。強烈な印象を受けた本ならある程度内容を記憶している。50代の自分がもう一度本を読めば、自分の内部記憶とつき合わせて、感じ方の違いを痛感するかも知れない。
それは、50代の自分による20代の自分の発見であり、50代の自分の視点の再確認になるかも知れない。記憶に全く残っていない本の場合は、単に50代の自分の再確認だけになるかも知れないが。


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Posted by 東芝 弘明