シュプレヒコール

出来事

メーデー会場には、午前8時25分に到着した。横断幕を作って持って行ったが、4メートルの長さでは短かった。来年は5.5メートルにしようと思った。そうすれば幅60センチであってももう少し文字を大きくできる。縦のスローガンももう少し長くしてもよかった。こちらも改善したい。今年のブログのこの記事を覚えておいて、来年作るときには、もう一度長さを確認して作るようにしたい。

今日のメーデーは雨だった。小雨が降りづづく中でのデモ行進になった。
「古い感じのデモでは若い人がついてきませんよ」
という意見が出された。なるほどと思いつつも、
「シュプレヒコール」「オーッ」
「憲法改正はんたーい」
という形が古いという訳ではないのではないか。無骨で戦闘的というのが古のだろうか。今の新しい時代は、闘いを全面に出さないで、歌うように、踊るように、いかにもさわやかに、軽やかに行進することが新しいということなのだろうか。

シュプレヒコールというのは、「舞台で、一つのせりふを多人数が声をそろえて朗誦すること」というところに最初の意味があり、これが元になって、集会やデモに使われて多人数が声を合わせるのをシュプレヒコールと呼ぶようになったようだ。元々はドイツ語だ。

みんなで声を合わせるのがシュプレヒコールなのだから、色々な形のシュプレヒコールがあってもいいということになる。

映画『ボヘミアン・ラプソディー』を見た。フレディ・マーキュリーの人生を描いた作品だった。外国の歌は、実にまっすぐに訴えているので、その歌詞はかなり政治的なものになっている。クイーンの歌の歌詞を見ているとそう感じた。フレディが歌に乗せて訴えると、観客が熱く答える。フレディは、自分の苦しみから生まれた歌を、社会に訴えかけて、共感を広げていた。みんなで一緒に歌を歌うことは、政治も文化も生き方も一体のものだった。歌は若者にとって社会に対する自己主張のための武器であり、表現であり、生き方そのものだった。

日本の文化には、隠喩や暗喩、比喩を多用することが多い。これが詩の中に取り入れられている歌には深みがあるので心惹かれる。しかし、歌から政治を切り離す動きが組織された中で、政治から隔離された歌が多く、歌=訴えるということにはなかなかなっていない。文化に政治を持ち込むなとか、芸能人が政治的発言をするなとか、外国では信じ難いような傾向がある。もっとまっすぐに政治をテーマにして歌を歌いながら隠喩や暗喩という比喩を多用して歌を作ればいい。こういう問題とデモ行進やシュプレヒコールは結びついている。

運動の中から生み出されてくる新しい文化。それは歌という形に昇華される時期がやってくる。その時に若者の中にも新たな息吹が芽生えてくるのではないだろうか。まだそういう流れは弱い。たたかいの中から新しい文化が生まれ、新しい歌が生まれるとき、運動の幅はもっと広がるのではないだろうか。


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出来事

Posted by 東芝 弘明