花火

出来事

和歌山で仕事が終わった後、妹のところに行き、7時30分に車でそこを出て、兄弟妹3人で娘を迎えに行った。娘は和歌山市内でアルバイトをしていたので終わるのを待った。待ち合わせ場所は、車販売店のベンツの横だった。待ち合わせの時間は夜の8時10分、店の横に車を着けるとベンツのマークが大きく光っていた。ウインドウ越しに展示されている車が見えた。

待っている間に花火が上がった。花火の音が車の中に響いてくる。
「今年初めての花火や」
ぼくはそう言った。
「きれいやなあ」
妹がそうつぶやくと兄貴が笑った。
上がる花火を見ていると娘が現れた。
その場所を離れて兄貴と妹と僕と娘の4人で食事に行った。
食事の中で娘から、ブルーカラーが使う言葉には限定コードが多く、ホワイトカラーには精密コードが多いという話が出て、この言葉の違いが、学力の格差になって現れてくるという講義を受けたという話が出た。

なかなか面白い話だった。調べてみると大阪大学の前馬 優策氏の論文がヒットした。「日本における「言語コード論」の実証的検討 ──小学校入学時に言語的格差は存在するか──」という論文だ。ちょっとだけ引用してみよう。

精密コードによって発せられる言語は文脈(状況)への依存度が弱く, 限定コードによって生み出される言語は文脈(状況)への依存度が強いとされる。
そして,労働者階級の子どもは限定コードによる言語運用を多く行い,中産階級 の子どもは精密コードによる言語運用を多く行っていることが指摘されている。そ のルーツは家族が主に用いるコードの違いによるものである。しかしながら,学校 教育の場は,限定コードよりも精密コードで言語運用を用いるよう要求されること が多く,精密コードに馴染みのない労働者階級の子どもは,学校で成功をつかみに くいとバーンスティンは主張したのである(Bernstein 1971, pp. 150-152)。

バーンスティンは、バジル・バーンステインという人でイギリスの社会学者、言語学者だ。ウキペディアには、限定コードと精密コードの違いが簡単に説明されている。

簡単に言えば、精密コードは、物事を客観的、抽象的、人格的に述べるコードであり、限定コードは、物事を主観的、地位的に述べるコードである。たとえば、子どもを寝かしつける際に、「どうして早く寝なければならないの?」と尋ねられた場合、「早く寝ろと言っているのだから、早く寝なさい。親の言うことが聞けないのか」と応じるのが限定コードであり、「早く寝ないと、朝起きるのが大変でしょう。今朝も眠いと言っていたじゃない」と応じるのが精密コードである。

精密コードとは、何だろう。ぼくは複雑なことを複雑に理解できることかと尋ねた。妹と娘はそうではないと言った。

物事を深く理解するためには、抽象的な思考、概念などが必要になる。学力が身についていないと抽象的な思考や概念を活用した思考が弱い。物事を多面的、立体的に理解しようと思えば、具体的なものから抽象的なものへ、単純なものから複雑なものへ。複雑なものの構造を立体的に把握し、自分の中でとらえ直し再構築する必要がある。精密コードというのは、おそらくそういう思考ができるようになることを意味するのだろう。日常生活の文脈に依存しないで、言語を通じて世界を再構築できる力と学力の獲得は不可分なものとしてつながっている。

半分、ふざけながら話を聞いていたが、なかなか面白い会話だった。

食事の後、兄妹と別れて娘を車に乗せて帰ってきた。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

出来事

Posted by 東芝 弘明