作品批評の姿勢

雑感

橋本で会議があった。昼食を3人で食べに行き、その後かつらぎ町に戻ってきた。夜『身辺警護人』をみたので、就寝が10時30分を少し過ぎてしまった。木村拓哉さんは、この役を演じるに当たって、かなり体を絞って役作りに臨んだ感じがする。かっこいい。スリムな姿で激しい動きをこなしている。これだけでも見応えがある。今回の「身辺警護人2」は、対抗心剥き出しの第1作とは違って、木村拓哉さんと斎藤匠さんが、互いを信頼してコンビニなってボディガードを務めるというところが面白い。2人の人限関係がドラマの見所になっている。
木村さんがスリムになって役作りを行ったことには敬意を表したい。役者の人々の中には、役作りのためにとんでもないことをする人が多い。三国連太郎やロバート・デニーロのように。彼の姿勢には、そういう役者につながるものを感じる。

最近、ネット上のレビューを読むと、作品を徹底的に厳しく批評する人が増えている。こういう書き方を見ると作品に対する温かい目がないなのと思う。ぼくは、作り手の努力や苦労を踏まえた上で作品の感想を書きたいと思っている。もしかりに自分が映画監督になって、作品を作ると映像の出来はものすごく悪くなるだろう。映画でさりげなく撮られたように見えるシーンでも、かなり作品の意図との関係で工夫が凝らされて映像が撮られていることが多い。

作品の作り手は、作り手の努力を踏まえた作品批評を読みたいのではないだろうか。もちろん、どんなに辛辣な批評でも、作り手は甘んじて受け入れるだろうとは思われるが、作品を世の中に送り出す努力を理解したうえで、批評してもらって次の作品作りの糧になるような批評に接したいのではないだろうか。

ぼくらのような映像をほとんど撮ったことのない人間の批評なんてほとんど役に立たないものかもしれないけれど、少なくともどんな作品であっても、クソ味噌にこき下ろすような批評はしたくないし、する気もない。

日曜洋画劇場の解説者だった淀川長治さんは、どんな映画でも、いいところを探して解説していたという。この淀川さんの話に触れたときに、作品批評のあり方を教えられた気持ちになった。作品の良いところを探し出して、そこに心を寄せるという作品の見方は、世に出された映画というものに対する愛情に裏打ちされたものだと思う。

映像も文学も同じ。作り手の側に寄り添った作品への批評。自分も作る側の立場に立った意見を。そういう視点を含んだ作品批評であってはじめて、作品と同じような値打ちをもつ批評になる可能性があると思う。こういうことを書いていると、小林多喜二という作家と蔵原惟人という文芸評論家の関係が思い出されてきた。作家が、自分の作品の発展、作家としての成長を求めて文芸評論家の言葉に耳を傾ける。小林多喜二と蔵原惟人の関係は、そういうものだった。

映画監督にとって、触れることのない批評であっても、偶然監督が読んでも、そういう見方のあるのかと思ってもらえるようなことを書いてみたい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明