『徹底分析 2021年度国家予算案』の感想を書きたくなった

雑感

予算質疑のために、まだ「議会と自治体」の『徹底分析 2021年度国家予算案』を読んでいる。読みながら強く頭の中に浮かんでくるのは「階級闘争」という言葉だった。新自由主義は「上から下への階級闘争だ」と指摘したのは、アメリカの経済学者、デビット・ハーヴェイだという。徹底的な規制緩和と資本による競争の激化、労働法制の破壊、社会保障の破壊を特徴とした新自由主義は、むき出しの資本主義を世界的規模で再構築するものになった。貧富の差が拡大し格差と貧困が広がる中で、一方の側に富が蓄積し一方の側に貧困が蓄積している。

しかし、それは、新自由主義の一般的な傾向として生まれているのではなく、政治的な政策によって生み出されてきたという側面を色濃く持っている。新自由主義は、経済分野で自由に競争しようというものでは全くない。資本の利害によって、政府の意思決定がなされる時代において、政治は、巨大な企業の下僕になっている。新自由主義の政治経済政策は、その結果として具体化されている。安倍内閣とそれを引き継いだ菅内閣を見ていると、官僚の中に多くの企業から派遣された人間が入り込んで、日本の官僚機構を直接資本が動かす傾向が強まっている。その中で巨大企業の意向、資本の側の意向が日本の政治に色濃く反映し、その中で新自由主義的な経済的再編が進んでいる。

マルクスの理論は階級闘争に貫かれているという機械的な理解をして、マルクスの階級闘争という認識が社会をとらえる視点を歪めてきたという批判が一部にある。それは、国民の中流意識が強まっていた一時期、幅をきかせたりしていたが、現在の日本社会の本質をとらえるためには、逆に階級とは何か、階級の利害はどこにあるのかという視点で捉えないと、本質がよく見えないという傾向を強めている。

日本共産党の『徹底分析 2021年度国家予算案』は、徹底的、具体的に国家予算を分析しているが、この具体的分析を通じて、資本という階級の利害が国家予算に色濃く反映していると思わざるをえない結果になっている。マルクスは、新自由主義の中で復権している。マルクスはもう古くなったという論理は、1980年代も90年代も間違っていたのだが、今はそういう議論こそが古くなって、「マルクスが新しい」というような状況が生まれている。しかし、こんな風に書くのも、実は間違っている。本当は、具体的な事実の具体的な分析を通じて、マルクスが分析したことが、再評価されつつあるということだろう。

経済の規模も、世界市場の規模も、資本の規模もはるかに違う現在資本主義の動きの中で、階級闘争という視点が色濃く出ている。階級闘争の視点で世界を見るのは間違いだという指摘は、マルクス批判として最初から的外れだったと思う。そもそもマルクスは、そんな狭い鋳型で世界や経済や社会を見ていたのではなかった。具体的な事実の具体的な分析を通じて、階級の利害が資本主義においては貫かれていることを分析したのであって、階級闘争という観点は、マルクスにとっては、事実を切り取る視点ではなかったということだと思われる。
ただし、こういうことを書いただけでは、論理にはなっていない。具体的な事実の指摘なしに結論だけを書いても何の証明にもならない。今日書いたのは、『徹底分析 2021年度国家予算案』の感想にしかすぎない。しかし、今日は感想だけを書いておきたい。

階級的な利害に分裂した社会の様相が、日本の国家予算に如実に表れており、しかもこの傾向が日本そのものを破壊しつつあると感じる。農林水産業や中小商工業をコロナ禍の中で推し進め、巨大企業の利益のために、市町村のもつ個人データを自由に活用したいというとんでもない意向までさらけ出しつつある日本。国の政策は、反吐が出るほど気持ちが悪いものになっている。

政権交代は、ありとあらゆる分野で問われはじめている。具体的な事実を把握するたびにそう感じる。現状分析によって明らかにされる日本の姿は恐ろしい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明