ケア労働と育児

雑感

男性と女性の家庭での役割を話していると、役割分担という話がよく出てくる。ここで言う役割分担というのは、性別による役割分担というような話。しかし、家庭内のケア労働でいえば、ほとんど対等平等にケアを分担しあうことが大切だというのが結論だと思う。家事が女性に押しつけられてきた歴史があり、家事も育児も女性の方が得意だとか、小さい子どもは母親を求めているとか、母性と父性は違うとかいろいろな議論がある。保育の専門家でさえ、小さい子どもにとって母性が大切だという議論が普通に行われてきた。

しかし、本当にそうだろうか、と思い始めている。人間にとって、男性も女性も育児における役割にはほとんど違いがなく(もちろん母乳が出るのは母親だけだが)、性別で役割の違いを論じるのは、非科学的というのが本当のところではないだろうか。

母性一般とか父性一般とか男性と女性を一般化して論じることの方がおかしいということだと思う。性はそもそも物理的、生物的にグラデーションをなしているので、男性と女性を一般化して論じることが実態に合わないという前提をまず確認すべきだろう。ここを原点に考えると母性と父性を分けて考えること自体がおかしくなってくる。脳内で分泌される愛情ホルモンとよばれるオキシトシンは、男性も女性も分泌量はほとんど変わらないという調査結果がある。ここから見ても女性に特有の母性を論じるのはおかしい。

家庭でのケアの分担でいえば、ケアが比較的多くの女性に押しつけられてきたので、女性の声に耳を傾ける必要がある。女性にとって子育てや家事は、仕事と同じ比重でのしかかってきて、仕事と同じように曖昧にすることが許されなかったのではないだろうか。男性の多くは、家事を手伝っていても、「手伝っている」とか「空き時間に役割を分担している」とか、仕事が忙しくなったら、「仕事が忙しいからできない」とか、こういう意識と行動の中で動いている人が多いのではないだろうか。

仕事と同じ比重で家事や育児を考えているだろうか。ということだ。この姿勢が女性にも男性にも、社会にも企業にも求められている。「家事や育児のことを職場に持ち込むな」というのも大きな間違い。社会全体がケア労働の重要性を仕事と同じように認め、全ての人間がケア労働を担う社会への変革が求められる。このような徹底した考え方と行動は、社会主義にならないと実現しないかも知れないが、どのような社会になっても、ケア労働は、人間である限り最後までついて回ることであり、ケア労働から自由になることはあり得ないと言ってもいいと思い始めている。

もちろん、ケア労働の社会化、つまり社会システムとしてケアを職業にする社会に発展することが望ましい。この分野はさらに発展させるべきだと思う。社会の中で人間を育て、社会の中で人間を介護するということは重要だと思われる。保育に欠ける場合は保育を行うというシステムから、すべての子どもに保育を保障する社会への移行。労働時間が抜本的に短縮される時代になっても、保育の必要な2歳、3歳から子どもたちの中で子どもを育てる仕組みがあってもいい。それが何時間になるかは、短縮される労働時間に左右される。人間の自由な時間の確保とケア労働と家庭生活の有り様は、紆余曲折を経て変化していくだろう。人間にとってよりよい選択が未来にはまっている。


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雑感

Posted by 東芝 弘明