60年目の終戦記念日 2005年8月15日(月)

雑感

60年目の終戦記念日がやってきた。
母は戦争が終わったとき、すでに小学校の教壇に立っていた。和歌山県海草郡野上町で教員をしていたのだと思う。母は亡くなったとき1冊のノートを残していた。1冊は和歌集だった。現物は妹の所にある。
8月15日が巡るたびに、母は戦争を題材にして短歌を詠んでいた。
母には、許嫁とよんでいい人がいた。その人は高野口町の駅前に住んでいた。兵役に就いていたその人は、あるとき休暇をとって高野口に戻ってきたことがある。母は胸をときめかせて会いに来た。しかし、わずかな時間差で行き違いになり、和歌山駅でなら会えるということで、急いで和歌山駅に向かった。
駅のホームに走り込んだ母の目の前でドアが閉まり、その人とはドア越しに見つめ合っただけだった。
その人にはHさんというお姉さんがいた。
「まるで映画のように、目の前でドアが閉まってね。それっきり別れ別れになったんやよ」
ぼくは結婚してからこの話を聞かされた。
8月6日、広島に原子爆弾が投下されたその日、その人は、沖縄の海の上で戦死した。戦争が終わる9日前のことだ。
母はこのことを何首かの歌に詠んでいた。
母は、父の死後、ぼくたちを連れて高野口の駅前にあったH家を訪ねた。それ以来、お姉さんとの交流は、お姉さんが昨年春に亡くなるまで続いた。一番、「Hのおばちゃん」といってお姉さんとのつきあいを大切にしたのは、高野山に住む従兄だった。母が亡くなってから27年間、従兄とお姉さんの交流は絶えることがなかった。
従兄は、ぼくの父親の兄の子である。従兄の父は、1945年7月フィリピン沖で戦死し、従兄は複雑な事情の元で、ぼくの父に育てられることになる。そこに嫁いできたのがぼくの母だった。従兄は、ぼくの母を「ねえ」と呼んで母親と同様の態度をとっていた。
「私にとって高野口の姉ちゃんは大事な人だから、大事にしてあげて」
従兄は、母にそう言われてから高野口の駅前に行くようになったという。
戦争によって失われた弟の命。その命を大切にして心を通わせた母と弟の姉。この交流を引き継いだ高野山の従兄。
戦争が失わせたものの大きさがこの交流には横たわっている。
母は、8月15日、天皇の玉音放送を聞いて、「日本が戦争に負けた」といって泣いている。神国日本が戦争に勝つことを信じ、教壇からそう教えていたであろう母。
疎開してきた東京の子ども達を受け入れ、戦時下でも子ども達との交流を楽しい思い出として語った母。
しかし、母は当時の戦争を侵略戦争だと理解し、戦後の新しい教育に希望を見いだしたようだ。戦後、母は組合活動に参加し、山間部の学校で数少ない組合員として活動し、勤務評定闘争にも揺らがなかったという。
母がガンになり入院したのは、ぼくが中学校2年の時のことだった。それから4年、母は全身をガンに侵され亡くなった。父の死後11年が経っていた。
母の口からは、高野口のHさんの話も、組合員になったいきさつも聞くことはできなかった。子ども達の手元に残ったのは2冊のノートだった。戦争のことがつづられ、戦死した人への思いがつづられ、子ども達に自分の生い立ちを書き、伝えようとした文章は途中で途絶えていた。
この2冊のノートだけでは、埋まらないことが多すぎた。
8月15日。終戦記念日。日本帝国主義・軍国主義が敗北した日。無謀な侵略戦争が終わった日。アジアと太平洋に平和が訪れた日。
広島・長崎の人々は、がれきの中でこの戦争終結を聞かされた。
「なぜもう少し早く戦争を終わってくれなかったのか」
こう感じた作家もいた。
戦死した人々は私たちのまわりにいる。戦争は遠い昔の話ではない。
しかし、「尊い犠牲によって戦後の日本の繁栄の礎となった」という言い方には怒りを覚える。きれいな言葉で国民をだましてはいけない。
戦争が人々の生活を打ち砕き、数々の不幸を生み出した。打ち砕かれたまま、生活が成り立たなかった無数の人々もいた。
戦争が色濃くなった戦時中、この戦争は正義の戦いだと信じ込まされ、死んだら神様として靖国に祀られると教えられていた。
日本は、国家神道を最大限に利用し、現人神だった天皇の臣民として、生きることと死ぬことを教えられていた国だった。
特攻隊員の若者の遺書には純粋な心情が書かれている。御国のために命を捧げるという言葉は胸に迫るものがある。しかし、特攻は紛れもない自爆行為だ。こういう作戦を遂行させ、天皇陛下の御為に国に命を捧げさせた命令は狂気の沙汰だった。
靖国神社は、天皇主権の国において天皇のために命を捧げた人を神にして祀った神社である。このような国家体制は厳しく批判され、天皇主権から国民主権へと転換されなければならなかった。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」
ぼくはこの言葉を戦死した方々にも届けたい。神として顕彰するのではなく、現代に生きる人間として、国家の過ちによって死んだ人の命をいつくしみ、平和への誓いを立てたい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明