教育基本法改正案に寄せて 2006年4月15日(土)

雑感

朝から雨。昼も雨。昼からも雨。夕方から雨が上がる。
青い空と白い雲が懐かしくなってきた。
自民党と公明党が4月13日、教育基本法の改正案を発表した。午前中に基本法全文と改正案を読み比べてみた。
民主的な憲法は、国民が国家権力を規制するという内容をもっている。教育基本法も、国家権力教育から教育の自由を守るという観点に貫かれていた。しかし、自公の改正案は、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という形で愛国心を教えることになった。
伝統と文化の中には、何が入るのだろう。国歌・国旗について指導が強まっている教育界にあっては、この問題が当然念頭に置かれていることになる。「我が国と郷土を愛する」かどうかは、個々人の自由にゆだねられるべきものであり、教育の世界で「教える」ものではないだろう。
ぼくでいえば、郷土を愛する気持ちは強い。しかし、国家となると感情は異なる。日本という国は好きだが、この国を統治している国家機構については、愛するという感情からは遠い。
障害者自立支援法を導入し、弱肉強食の国家体制を構造改革を通じて推し進めている国家体制については、愛する感情を抱くことはできない。
国=国家権力ではない。しかし、教育基本法改正案のいう国には国家権力という概念が含まれている。つまり国>国家権力なのだ。
人によっては、どうしても郷土を愛することができない場合もあるだろう。個人的な体験と郷土愛が深く結びつく場合もあるから、郷土愛さえも教えることはできないだろう。
日本国を愛するがゆえに、国家権力を変えたいと思うのだ。
現行の日本国憲法が生きる国をつくるという国の愛し方もあるのだ。
愛国心も郷土愛も個人の自由な感情の発露であって、教育や国家権力にコントロールされるべきものではない。教育でそれらを教えるということは、現行の国家体制への忠誠を求めるということにならざるを得ず、よりよい方向に社会を発展させるという批判精神さえ押さえ込むことになる可能性がある。
東京都は、国歌・国旗に対して、極端な押しつけをおこなっているが、こういうことが極端に推進された上で、郷土愛と国を愛することを求めると、それはファシズムの領域に入ることになる。
教育基本法改正案は、20以上の徳目を列挙している。また、「教育振興基本計画」を立て推進することになっているが、これらは、国家による公教育への介入をおこなうことを意味する。
改正案には、議論があったようだが、結局、「教育は、不当な支配に服することなく」という第10条の規定が残された。しかし、「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」という規定と第2項の「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」という規定が削除された。
教育委員会の使命は、教育条件の整備確立にあり、教育内容については、教育委員会は介入できず、教育は「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」としたことによって、教育の自由を宣言していたところに教育基本法の崇高な精神があった。
学問の自由の保障、真理探究の保障が教育基本法の神髄だったが、戦後60年たって、国家に教育がコントロールされる内容に改変されようとしている。
今回の改正案は、まさに国家の教育への介入案というものであって、改正の名には値しない。
悪夢のような現実だ。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明