澤地久枝さんの講演会 2006年5月13日(土)

出来事

午前中、雨が激しく降る中、日曜版の配達をおこなった。
9条を守る会の澤地久枝さんの講演(「輝け!憲法9条・平和のつどい」)に観光バスが出るので、12時前に役場の前に行き、車の中でローソンおにぎりを食べてバスを待った。12時20分頃にバスが来たので、同じように待っていた女性の方々と一緒にバスに乗り込んだ。
バスはかなり席が埋まっており、橋本市からきたNさんのとなりがあいていたので、座らせていただいた。
雨のやむ気配がない。
会場には、開演前20分という時間に着いた。会場にはいると一階席にはどんどん人が入り、空席を埋める案内役のスタッフの掲げるプラカードが、効果的な役割を果たして、空席がどんどん埋まっていった。二階席にも人が埋まり始めているのが見えた。
最初、橋本から串本までの人が参加しているという「ぞうれっしゃがやってきた」というコーラス組曲が上演された。一番前に小さい子どもたちが並び、指揮者に合わせて歌が披露された。
会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
澤地久枝さんは、このコーラスの後、おろされた緞帳の後ろで講演用の椅子に座り、緞帳が開くとよく通る澄んだ声で話し始めた。
澤地さんは14歳で終戦を迎えた。戦争が終わったとき満州にいた。関東軍の幹部の方々は、自分たちの家族を守ることを最優先し、真っ先に逃げ、満州国にいた満蒙開拓団と呼ばれた日本国民を置き去りにした。男の人は、満州国から徴兵され、戦場にかり出され、村には女子どもしか残されなかった。本国へ敗走しながら逃げる道のりの中で、母が亡くなると3歳の子どもが泣いて歩き、そのまま日本人孤児になった話や、小さな子どもが食べ物も与えられず死んでいった話もされた。
戦争は、多くの不幸な国民を作り出した。日本には、言語に絶するような苦労を味わい、それを語ることもできずに死んでいった人々がたくさんいた。
赤紙を届ける仕事をしていた人のドキュメントがテレビで放映された話も澤地さんはおこなった。
“自分はこの仕事に就いたから徴兵を免れた。赤紙で戦場にかり出された人の中には、2回も3回も召集された人がいた。自分はこの人たちに申し訳ないと思いながら召集令状を届けていた”
召集令状を配達していた方はこういう思いをもちながら配達していたようだ。
召集令状を受け取った人は、手をぶるぶる震わせて、「まちがいじゃないかね」といい、身重の奥さんは、泣き崩れたという。召集令状を届けていた人は、昼間配達に行くのは忍びないので、夜中に配達に行き、数多くの人々の悲しみに対面していたのだという。
天皇の軍隊として御国のために出征を名誉として天皇陛下万歳といって戦場に出て行ったのではない。これが赤紙が来た家の本当の姿だった──澤地さんはそう説明した。
無名の人々の苦しんできた歩みを、言葉に残すこともできず黙っている人々に澤地さんは会いに行き、寄り添い、話を聞きノンフィクションライターとして本を書きつないできた。
講演では、憲法第9条があったからこそ、戦後60年間、日本は誰ひとり戦場にかり出さず、誰ひとりとりとして戦争で外国の人間を殺さずにこれた。これは奇跡的なものだと語られた。
憲法9条を守る会は、和歌山県下で50団体結成されたという。結成を準備しているところもまだある。9条を守る一点で集まった会。ここには自民党支持の方も共産党支持の方も無党派層の方もたくさんいる。9条を守りたいという思いの一点で集まってくる人々の胸には、日本国憲法が生き生きと息づいている。
日本国憲法は、平和と民主主義を願ってきた国民の中に生命力を持って育まれてきたのだと思う。
澤地さんは、講演の冒頭、「大勢お集まりいただいたことを憲法9条のために喜びたいと思います」とあいさつされた。
胸の熱くなる講演だった。
夕方からは、同級生との飲み会。久しぶりに集まっていろんな話をして飲む会は、遅くまで盛り上がった。


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出来事

Posted by 東芝 弘明