日本とアメリカ 2006年5月12日(金)
アメリカから帰ってきた同級生にウエストコーストで偶然会った。
アメリカの話を聞いていると、アメリカの中心部と東西の湾岸部は、かなり国民の意識に差があるという話だった。イラク戦争でいえば、東西の湾岸部は、「ブッシュは経済的利害と宗教問題であの戦争を引き起こしたという認識で一致する」という。内陸部はブッシュ賛成が多いという。
日本人に対する認識は、
「刀を振り回しているアジアの国」
という人が多いそうだ。
「トヨタはすごい」という話と、「刀を振り回している国」という話が共存しているともいう。
でも、アメリカの人々は、自分の足で1人で立っているという。
「そこがものすごく違うよ」
「日本の政治家の話を聞いていても、何をめざしているのか、何を実現したいのかさっぱり分からない」
「帰ってきたとき、日本人はみんな同じ顔をしているように見えた」
友人はそういった。
なかなか核心をついている。
考えてみると、小泉さんの話を聞いていても、ワンフレーズは分かりやすいが、では構造改革でどういう日本をめざすのか、何を実現したいのか──これについては、ついぞ分からなかった。
5年間の政治を通じて、小泉さんは、構造改革をつうじてどのような日本をつくるのか、どういう改革をおこなうのか、まとまった考え方を示したことがなかった。
教育基本法の改正をおこなうために法案を提出しても、今回の改正を通じて何を実現するのかを国民に分かりやすく語っているわけではない。
「説明責任」という言葉がある。
日本では、説明をする時間をとり、その物事についてしゃべれば説明責任を果たしたかのようにいう。
しかし、本当はそうではないだろう。
なぜ改正する必要があるのかという歴史的な背景、改正の中心点、改正を通じて実現したいことを誰にでも分かる言葉で説明してはじめて説明責任を果たしたことになる。
だが、このような説明は絶対に聞かれない。
法案を国民にわかりやすく解説し、説明してみせるのは、法案に反対している側のほうだ。こちら側の説明は、改正の中に隠してある本音、改正の本質を暴露しながら説明するということにならざるをえない。これらの説明は、反対という立場からの説明なので、反対の側に立たない人々の中には、耳を貸さない人々が出てくる。
中曽根内閣の時代、中曽根さんは、今の小泉さんのように路線の本当のねらいを隠すことはしなかった。日本列島浮沈空母化を提唱し、4海峡を封鎖し、教育改革をおこない、憲法を改正すると語った。小さな政府をめざし、電電公社と国鉄を分割民営化すると語った。
ここに書いた話は、中曽根さんの発言にもとづいて跡づけることができた。
中曽根さんの語る言葉には、彼なりのビジョンと展望があったし、中曽根さんはそういう話を語りたがる人でもあった。
小泉さんの話には、未来への展望や路線のビジョンを何も示さない。むしろそういう話を語らないところに特徴があると言ってよい。
さて、昨日から過去3日間、頭の中で考えていたことを論理の展開に合わせて書いてみた。論理から論理を展開していくという書き方をおこなうと、かなり理屈っぽいものになる。
読み返すと理屈が先に立ってなかなか読みづらい。おもしろくない。
具体的な話を織り交ぜながら、具体論を交えながら書かないと話が生きてこない。
自分の書いた文章を読み返すとだんだん恥ずかしくなってきた。
読んでくださった人には、心から
「ごくろうさんでした」
「ありがとうございました」
といわせてもらいたい。
そして、なんとなく、「ごめんなさい」も付け加えたい。