お盆と靖国神社 2006年8月14日(月)

雑感

真言宗は、かなり多くの考え方を柔軟に受け入れる宗派だと思う。
日本の古来の神の考え方は、一神教ではなく多神教だった。神は天や地にも動物にも物にも存在した。真言宗の考え方をかいま見ると、この日本の古来の多くの神を取り込んでいるように見える。
お参りに来てくださったお坊さんにこのことを聞くと、真言宗は、インドで成立したときからこういう傾向をもっていたという。
だからこそ、神社と仏教が一緒になって存在し、世界遺産になっている丹生都比売神社にも大きなお寺が併設(=併存?)されていたのかも知れない。
日本の神社にもさまざまな神様が存在している。
天皇家だけが神として祀られているわけではない。
この日本の古来からの風習に異を唱え、国家神道をもって線を引いたのが絶対主義的天皇制だった。
1868年の明治維新以降、天皇制の国家体制は徐々にその権力を確立していったが、まず最初におこなわれたのが廃仏毀釈だった。絶対主義的天皇制は、天皇の権威を確立するために最初から祭政一致をめざしたということになる。これは、仏教と日本古来の神道とが融合し発展してきた歴史を実力で破壊するものだった。
廃寺に追い込まれた寺も多く、その後復興された例も多い。
靖国神社の前身である東京招魂社は、1869年に設立され、1879年には靖国神社に改称されている。この神社は、次のような性格をもつ。

近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、朝廷側及び日本政府側で戦役に付し、戦没した軍人・軍属等を、顕彰・崇敬等の目的で祭神として祀る神社である(フリー百科事典ウキペディア)。


近代以降の日本とは、明治〜太平洋戦争終結の1945年までのことをさす(ただし第2次世界大戦のA級戦犯は、1978年10月「昭和の殉難者」として合祀されている)。
日本古来の歴史と伝統にのっとってとか、日本の風習だという論調で天皇の問題や靖国神社の問題を語ることに強い違和感を感じる。靖国神社の前身である東京招魂社が設立されたのは、今から137年前であり、それ以前は、国家のために戦死した人物を神として国家が神社に祀った例はない。
靖国神社の活用は、国家神道を確立して支配を強めようとした明治以降の国家の戦略によるものだ。つまり、国家神道は歴史と伝統を踏みにじって成立したものであり、明治以降国が全力で立ち上げた新興宗教のようなものだったといえる。
靖国に祀られている方々は、ただ単に弔うために祀られているわけではなく、御国のために戦死した人を中心に顕彰する目的を持っている。つまり、第2次世界大戦を含め、日本の戦争は正義の戦争であり、そのために命を落とした人々は名誉の戦死を遂げたという考え方をつらぬいているということだ。
靖国神社は、今日の世界に対し、あの戦争は正しかったという主張を投げかけている神社になっているのだ。これが世界の強い反対にあっている。
靖国への公式参拝を擁護する方々の中には、命をかけて戦い死んだ若者の霊を弔うのがなぜいけないのかという反発がある。しかし、国内の批判も国際的な批判も戦死者を弔うことの是非を問題にしているのではない。論点はまったく違うところにある。
靖国神社への批判がどこにあるのかは、靖国神社にある遊就館がどういう宣伝をしているかをみればよく分かる。問われているのは、第2次世界大戦の評価の問題である。
日本の天皇制の権力が、ヒットラードイツとムッソリーニのイタリアとともに引き起こした戦争は、侵略戦争であり、この戦争は、ファシズムが引き起こした戦争だった。しかも、この戦争は、ファシズムの側の世界史的な敗北として終結した。
遊就館は、このことを正面から否定し、今も日本の戦いは正しかったとしている。こういう歴史認識が世界に受け入れられないで、批判の的になるのは当然だと思う。
第2次世界大戦は、多くの日本人を赤紙で召集し、その命を奪った。
不正義の戦争にかり出した当時の天皇制の責任は重く、遺族に対する罪は深い。
戦死者を正義の戦いに殉じた者として顕彰することは、当時の国の責任を不問にし、正当化することにつながる。
日本政府は、当時の絶対主義的天皇制が引き起こした侵略戦争の過ちを明らかにし、戦死者に対して深い謝罪の言葉をのべ、その責任を果たすべきである。
外国に対する謝罪も誠実におこなわず、戦死者に対する謝罪の言葉ものべない日本の国というのは、おかしな国ではなかろうか。
戦前回帰と再び戦争する国へという流れは、つながっている。日本の戦後政治を担ってきたのは、戦前と同じ政治の流れを汲む勢力だった。ヨーロッパ戦線をはるかに超える犠牲者を出した侵略戦争を正当化する勢力が、戦後も政治・経済の分野で実権を握った国は日本以外にない。
アメリカとともに戦争する国は、戦前の日本の戦争を正当化しようとする勢力である。現在の戦争は、過去の戦争の正当化の上に成り立つとこの勢力は信じているらしい。
北朝鮮にも個人崇拝的な色彩が濃いが、明治以降の天皇制も、類似点が多く見受けられる。
大日本帝国憲法、国家神道、神話の活用、軍人勅諭と教育勅語、これらが国民統合の精神的な支柱だった。日本は天皇を中心とした神の国、天皇陛下は現人神だった等々という言説は、個人崇拝の思想以外のなにものでもない。この戦前への回帰は、日本を個人崇拝の国へのいざなうものである。
亡霊再び。
そんな感じがする。
戦場で命を亡くした若者。私の父の兄。母の許嫁。
何度も召集され戦場に赴いた父。
あの戦争は、言論の自由を奪い、国民相互を監視させ、戦争への協力を押しつけ、国民に生活苦と命の危険を何重にも経験させた。
侵略戦争には大義がなかった。
愚かな戦争を繰り返さないためには、歴史の教訓から学ぶ必要がある。
大日本帝国が引き起こした戦争を批判する精神が、歴史を繰り返さない力になる。
「過ちは繰り返しませぬから」
8月15日を前に、この言葉を記したい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明