無責任な言葉はどこから生まれるのだろうか

雑感

午前中、議会だよりの委員会を開催し、午後2時から賀詞交換会に参加した。60人ぐらいの参加だった。人口減少と地域の衰退に直面していることに対して、来賓の何人かがふれてあいさつした。戦後76年間、政治の中枢にいた勢力が、地域の衰退に対して、それがあがらいがたい自然現象であるかのように捉え、自分たちの積み重ねてきたことに対する反省が全くないあいさつを行った。
「なんだろうこの無責任さは」
悲しい笑いがこみ上げてきた。
消滅可能性のある自治体だと指摘したのも、政権を握っている側だったし、これに対する対策と称して地方創生を唱えたのも同じ側だった。ほとんど事態を変える対策を講じてこなかった勢力が、明るい未来を描いて行きましょうと言われても、もう少し地道に、自分たちのしてきたことに対して責任を持って、胸に手を当てて対策を考えてほしかった。

農家のみなさんに、「日本の農業が駄目になってきているのは、自然現象だと思いますか」と聞いたことがある。政治や経済の路線に責任があるのではないかという選択肢に対して、手を上げた人はほんのわずかだった。先進国の多くは、第二次世界大戦期の食糧難を経験したから、戦後、自国の自給率を引き上げる戦略を講じてきた。日本は戦争に破壊された経験を持っているのに、自給率を引き上げる戦略は講じられてこなかった。この違いは大きい。

大阪の友だちのところにホームステイしていたオーストラリア人が、小泉改革のときにこういう疑問を語った。
「今までやってきた政治というものがあるので、政権党が改革といっても説得力がない」
日本国民が、小泉改革に期待して支持率が80%を超えているときに。

地方自治体の未来を地道に考えるときに必要なのは、現状の把握と歴史的経過の把握、そこから現状を変える対策を講じることだ。そうしないと本当の意味でのブレイクスルーは生まれない。目の前で起こっていることは、単なる自然現象ではない。人間の社会は、自然との切り結びの中でつくられているが、人間は自分の歴史を自分たちの手でつくっている。自然に発生していることと人間の手によって起こってきたことを見極めて、対策を講じなければならない。これは当たり前のことだ。
こういう風に考えるのは、社会科学の基本の基だろう。
無責任は言葉は、いったいどこから生まれるのだろうか。

なにはともあれ、政権に関わっている人の話を聞くのはいい。新しいことを自分の頭で考えるきっかけになる。そういう意味では有意義だった。


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雑感

Posted by 東芝 弘明