議員定数についての考え方1

雑感,かつらぎ町議会

議会本会議の質疑は3回。この回数制限があるので問題の全てを全面展開できないときがある。今回の議員定数を14から13に削減する議案に対しても、こういうことになった。
かつらぎ町議会は、議会基本条例が制定された議会であるにもかかわらず、議員定数・報酬調査特別委員会での審議では、論点や争点を明らかにすることはできなかった。したがって、定数削減の提案理由を具体的に明らかにすることさえ叶わなかった。
原因は、特別委員会の運営の仕方のまずさにあった。運営の仕方が議会基本条例からかけ離れていたので、ぼくの中には強い憤りがあった。
本会議での質疑のテーマは、議会基本条例からいかにかけ離れた提案になっているかに据えた。したがって質疑では、議員定数削減の是非を全面的に明らかにするという組み立てにはせず、論点の結論を、住民の意識動向を踏まえて審議を続けるべきという点に据えた。

この問題と、日本共産党町議団が議員定数削減に対して根本的にどう考えるのか、というのは別の側面がある。議員団ではまだ全面的にこの問題での考え方をまとめていないが、本会議場では展開できなかった議員定数削減について、個人の見解として、考えて見たい。

議員定数の問題の1つは、地方自治体における二元代表制の仕組みをどうするのかという問題だ。
根底にあるのは民主主義の仕組みとしての二元代表制をどう設計するかということだ。これは、近隣の市町村の議員定数が少なくなっている現実と比較すれば、かつらぎ町は多すぎるというような議論ではない。
議員定数は、人口当たり何人の議員が必要だという法律があった時代から、「行政改革」と称して、法定数をはるかに下回るところまで縮小してきた。この偽物の「行革」の流れは、地方自治体の二元代表制、民主主義としての議会の仕組み、機能を低下させてきた。
民主主義にとってどうしても必要なのは多様性の保障だろう。議会には、多くの住民の声を議会に反映させ、住民の声によって自治体を運営すべきという役割がある。住民の代表の議員が一定数存在することによって、多様性がある程度保障される。
定数が増えると当選ラインが下がる。当選ラインが下がれば、支持基盤の弱い若者の代表や女性の代表の当選にも可能性が出てくるし、小さな集落からも議員として出てくる可能性も生まれる。
多様性は、議員の人数が多くないと担保できない。少ない人数の議員が活動量を増やしても、多様性という質は確保できない。議会は議員に賛否を求める。多様性は、議員の定数に左右される。議員は議会の中でたえず賛否を求められる。イエスかノーか。この一点に議論は絞られ、これ以外の選択肢はない。このときに一人の議員が自分の中に多様な意見を内包させることはできない。多様な意見を多様に反映させるためには、人数が求められる。議会という民主主義の仕組みとして、どのように多様性を確保するのかということと、議員の定数には深い関係があるということだ。
もちろん、定数は民主主義の枠組みに留まるので、当選した議員によって構成される議会が多様性を保障するかどうかは、選挙の具体的な結果に左右される。定数はその点では、民主主義の枠組みという意味しかもたないが、定数が増えれば当選ラインが下がるので、少数の意見の反映が起こる可能性があるということだろう。

かつらぎ町は、ほんの少し前まで地域の代表のような議員がいた。ここには問題もあったが、小さな地域の具体的な意見を議会に反映させるという点で、これらの議員は一定の役割を果たしていた。しかし、議員定数が削減されるに従って、地域密着型の住民の意見を議員が担うことが少なくなった。
現在14人の定数と25ある自治区の関係のバランスは完全に壊れている。議員がいる地域で産業廃棄物問題が起これば、自治区と議員が一緒になって動き、議会にも行政にも働きかけ、自治体全体の問題として大きな問題に発展した例がある。同じことが、議員のいない小さな集落で起こったときに同じことができるか、極めて心許ない。

日本全体の問題でもあるが、地方自治体の議員数は、すでに二元代表制の枠組みとしては、少なすぎるところまで減らされてきた。今は、少なくなりすぎた議員がどうやって地域の声も含め、住民の声を議会に反映させるよう工夫しなければならない領域に入っている。議員と密接につながっていた区長から、自分たちの地域に議員がいなくなったので、町の情報さえまともに入らないという意見があり、これ以上議員定数を減らすべきではないという意見が出された。また長く議員のいない地域からは、一体私たちはどの議員に声をかけたらいいのか、それさえ難しい。声をかけたら何でこの議員にだけ声をかけるのか説明が難しいという話だった。このような意見は、山間部の区長からも出されていた。
こういう声に応えて地域住民の声を議会がくみ取る新たな仕組みを構築する必要がある。この活動をやる場合も、議員数が一定数ある方が意見をくみ取ることは容易になる。少なくなればなるほど、意見聴取という作業でさえ困難が増えるのは間違いない。

行政の仕事は、日本の場合、とくに新自由主義的政策が本格的に展開された2000年以降、極めて複雑になってきた。例えば、社会福祉の制度における所得制限は、多義にわたり住民が制度を理解して活用するという点でハードルが高くなった。所得制限だけでも複雑なのに、介護保険にしても医療にしても、専門的に勉強しないと社会制度を理解できないような現実がどんどん積み重なってきた。本当にこのような複雑多岐にわたる制度設計が必要だったのかどうか。これを国に問いただしたい気持ちがある。このような社会制度に合わせて、議員活動を行うためには、議員は多岐にわたって変化する社会制度を追いかける必要がある。専門的知識なしには議員活動が成り立たないという点で、議員にも高い専門性が求められる。
そういう状況の中、議員定数を減らしていくと、まず委員会の構成が縮小する。かつらぎ町でも3つ存在した常任委員会が、2つになって、委員会当たりの事務事業が増えることになった。委員会を3つにして増やすことはできるが、重複して議員が委員会に入ることになり、行政の事務内容を把握する点で議員の負担が増加する。

真面目に議員として、専門化する行政の変化を把握しながら議員活動を行うためには、かなりの時間を割いて法律の変化を追いかける必要がある。手抜きはいくらでもできる。黙って座り当局が提案することに何でも賛成し、意見も出さずにいても議員は議員として扱われるし、そういう議員が選挙で弱いとも限らない。黙って賛成するだけでも議員の最小限の仕事はできる。ただし、そういう議員が、住民の願いを議会を通じて実現できるのかということになれば、そんなことはできないということになる。今の時代、黙って座り賛成だけしている議員が求められているのではないだろう。

かつらぎ町で3つの常任委員会を確保し、地域との関係でも多様化する意見を議員が反映できるような仕組みとして議会を校正するためには、最小限18人程度の議員定数が必要だと思われる。しかし、現実問題として、本町で18人の議員数を定数にすることはできないと思われる。議員は少なくてもいいという住民の意識からすれば、14人の現状を維持することが精一杯というところだろう。

2つめは、議員のなり手が少ない問題をどう考えるか。
これは明日書いてみよう。


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雑感,かつらぎ町議会

Posted by 東芝 弘明