憲法9条に自衛隊を書き込むと何が起こるのか

雑感

自民党の憲法改正のたたき台素案

憲法改正について新ためて考えたい。
自民党は2018年3月26日、憲法改正のたたき台素案なるものを発表している。憲法第9条の条文に以下の内容を加える。憲法9条と自民党が付け加えるべきだと言っている条文を示してみよう。

第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第九条の二 前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
② 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

自民党の改正案がたたき台素案のまま通ると9条はこうなる。新しい9条の二はまず二つの文から成り立っている。
前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず
「そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する」

「必要な自衛の措置をとることを妨げず」ということで、「自衛」ということであれば、自衛隊を保持できるということになる。この「自衛」の内容が問題だ。「自衛」の中には、「集団的自衛権」が当然入る。自民党のたたき台素案が9条に付け加わることによって、「集団的自衛権」の行使が憲法違反でなくなる。

安保法制の改正が憲法を根拠に進む

さらに、この憲法改正が実現すれば、現行の9条によって、さまざまな形で手枷足枷のついていた安保法制の「改正」が日程に上る。フルスペックで「集団的自衛権」を行使できる法律として、安保法制が生まれ変わったら、現行の憲法9条は完全に死文化して、アメリカの行う戦争に自衛隊が全面的に参加できるようになる。
つまり日米安保条約を結んでいるアメリカ軍が、海外の戦争で攻撃を受けた場合(アメリカが戦争を仕掛けるから当然、米軍が攻撃を受けることが想定される)。最初後方支援に入っていた自衛隊が、戦況の進展によって、アメリカの戦争に「集団的自衛権」の名の下に全面的に参加できるということだ。「自衛」の名の下での侵略戦争もあり得る。イラクに対する大量破壊兵器を口実とした多国籍軍による戦争は、明らかに侵略戦争だった。侵略戦争を「自衛」という言葉で語るようになれば、それは戦前の大東亜共栄圏を口実とした戦争とも重なる。

くせ者なのは集団的自衛権

第2次世界大戦後、世界各国は、宣戦布告を行って戦争することは国際法上違反なので許されなくなった。あのロシアでさえ、ウクライナへの侵略戦争を「特別軍事作戦」と呼んで戦争だとは言っていない。また言い訳として、東部のウクライナから独立した「国」からの要請を受けて「特別軍事作戦」に至ったので、この軍事作戦は「集団的自衛権」の行使だと述べている。

「集団的自衛権」は、軍事同盟を結んでいる一方の国が軍事攻撃を受けたら、それは自国に対する攻撃だとみなして、戦争に参加するというものだ。これはあくまでも自衛のための反撃だということになる。
第2次世界大戦後、多くの戦争は、「集団的自衛権」の名の下に行われてきた。くせ者なのは「集団的自衛権」だと言っていい。憲法9条に自衛のための実力組織である自衛隊を明記し、法律に根拠をもっていれば、「自衛」のための(もちろん「集団的自衛権」の行使としての)戦争に参加できるようになる。

内閣総理大臣に大統領のような権限が集中

しかも、自民党のたたき台素案は、内閣総理大臣に対して最高の指揮監督者としての地位を与えている。合議制であるはずの内閣であるのに、その中で内閣総理大臣に指揮監督権を付与しているのが恐ろしい。まるで大統領のような権限を内閣総理大臣に与えることになる。しかもこの権限は憲法上の規定になる。ロシアがプーチン大統領の暴走を止められないように、こんな仕組みを憲法上作ったら、もしも内閣総理大臣が暴走したら止められなくなる。
自民党のたたき台素案は、改正案の別の条文で「緊急事態条項」を盛り込もうとしている。こちらも恐ろしい。緊急事態だという宣言を内閣が行えば、国会を開かず政府が法律を制定できるようになる。こうなると自衛隊についての法律上の歯止めは極めて怪しくなる。

戦争放棄と国民主権は一対のもの

現行の憲法9条は、戦争に参加したい国家権力の手を縛ってきた。国家権力の手を縛る精神は、憲法前文によく現れている。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」

「人民の人民による人民のための政治」という意味と「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という文章は同じことを言っている。この文章の直前の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」という文章を保障しているのが憲法9条であり、この9条の精神と「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」という文章は、一つの対になっている。戦争を放棄する国こそが、国民主権を具体的に貫ける国という認識が憲法の前文には込められている。逆に言えば、憲法9条が危うくなるときは、国民主権が危うくなることを意味する。
戦争放棄と国民主権は一対のもの。このことは忘れてはならないものだと思う。憲法9条が揺らぐとき、国民主権も揺らぐのだということを考えてほしい。

平和外交の具体化を求める

憲法9条の精神は、諸外国に対して、日本はどんなことがあっても他国を侵略する意図は絶対もちませんというものだ。こういう国が存在するのは、他の国にとって深い安心を与えるものだと思う。資源がない日本は、中国からも北朝鮮からも侵略される具体的な理由に欠ける。戦争は政治と経済活動の延長によって起こる。戦前、資源と市場を求めて朝鮮半島や中国大陸、東南アジアに侵略していた国が、戦争を放棄したことによって、アジアにもたらしたものは平和だった。この変化は極めて大きかった。

中国が覇権主義的になり、北朝鮮がアメリカを相手に徹底的な挑発を繰り返している今だからこそ、紛争を戦争にしない取り組みが求められている。中国と韓国、北朝鮮、アメリカとの間で包括的な平和を求める外交が発展することが望ましい。
自公政権であっても、軍事的な対抗ばかりに夢中になるのではなく、同時に平和的な外交戦略を打ち立てて、外交を行うことはできるだろう。平和について外交戦略を打ち立てて、対応することも日本政府の重要な仕事ではないか。
軍事的対応しかもたない国は危うい。日本共産党とは立場が違うかも知れないが、戦争を徹底的に避けるという方針を具体化するのは、国としては当たり前のことではないだろうか。


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雑感

Posted by 東芝 弘明