9月会議が終了した

雑感

委員会付託前の本会議質疑

議会の最終日、決算については、運営の改善もあって、委員会への付託前の本会議質疑を、全議員による質疑の唯一の機会だということなので、質疑を行った。決算の付託前質疑を本格的に行ったのは初めてだった。テレビカメラの入った場所での委員会付託前の議員全員による質疑。この意味は大きい。
ぼくの質疑の内容は、多岐に渡るものではなくテーマを絞ったものにした。総括を重視する質疑にしようと思っていたので、令和3年度の決算から何を読み取るべきなのかという点を主眼にした。

行政は分析が苦手?

行政にとって決算は分析の対象にはなかなかならない。予算を組んで執行し、決算をまとめたら予算の編成を行うというのが行政なので、自分たちのしていることを深く分析するという視点が極めて弱い。この数値から何を読み取っているのかを聞いても、分析に基づいたまともな答弁が返ってきたという経験は乏しい。
決算に対する議会の指摘事項が、行政に十分生かされないのは、議会軽視というよりも、分析が苦手な自治体の一つの特徴なのではないだろうか。議会が住民の代表として、決算を重視して、膨大な資料から自治体のしていることを分析して、問題を投げかけるのは、馬車馬のように走ってる行政に対して、行政自らが自分たちのしていることをじっくり見つめてもらう貴重な機会になると思われる。
行政のPDCAサイクルというのは、事業ごとの近視眼的な細かい積み上げなので、自分たちの行政全般についての分析というのは、ごく一部の職員と首長の手に委ねられている。ここの分野が会計全体に対して充分な認識、とくに俯瞰的な認識を持てない自治体は、自己分析力の弱い自治体だと思う。多種多様な事業を抱え、日々の仕事に追い立てられている自治体が、自分のしていることを深く認識できるかどうかというのは、自明のことではない。
なぜ井本町長の時代に財政が悪化したのか。これがどうして克服できたのか。この教訓から何を導き出すのか。現在の町長は、この問いに対して答えをもっていると思うが、それが行政全体を貫く認識なのかどうかは判然としない。今日の実際の質疑では、共通認識があるという手応えは感じられなかった。

決算の質疑をしたのは2人

質疑を行ったのは、ぼくともう1人の議員だけだった。決算の質疑を行うためには、準備が必要になる。ぼく以外の質疑は、新人の議員だった。彼は天野診療所の運営状況と審議会の議論を踏まえ、自分の質疑の原稿も作成して、質疑にのぞんだ。こういう議員が増えることを望みたい。どれだけ資料に当たって深い議論を行えるのか。それは準備にすべてかかっている。行政当局とのヒアリングと調査も重要だ。今回は不十分なヒアリングになったが、次回からは効率のよい形でさらに充実するようにしたい。
宮井議員がいたときは、ヒアリングは2人で行っていた。ぼくの方が共産党関係の仕事が多かったので、ヒアリングの軸は宮井議員だった。それを一人でするようになったので、ぼく自身の準備の仕方のまずさが見えてきた。

かつらぎ町議会の委員会のあり方についての私見

かつらぎ町議会は、決算委員会を6人で構成している。委員会は過半数を超えるべきではないと思っている。1番の理由は、住民に対して議会を公開しなければならないということだ。かつらぎ町議会は、本会議にカメラを入れて映像配信を行っている。本会議については、住民に公開されているが、委員会はごく少数の傍聴者にしか公開されていない。今の状態で全議員を構成員とする委員会を開催すると、審議の内容が住民に十分公開されなくなる。
かつらぎ町議会の委員会審議は要点筆記のみ、映像配信もないし、多人数が入る部屋にもなっていない。傍聴人が入れる会議室を工夫して作り、映像配信も行われればいいのだろうが、ここまで充実すると、さらに費用も人も必要になる。

委員会の審議では、誰も傍聴人がいなかった委員会運営になった例がある。それは、議員定数と議員報酬の課題を審議した委員会だ。
これは、会議日程を議会再開日当日に示さず、議事日程に合わせ隙間を埋める形にした結果、生まれたものだ。どうしてこういう開催の仕方をするのか問いただしても改善は図られなかった。全員協議会の開催のときに傍聴人を受け入れるべきだという主張があり、傍聴の受け入れを確認したのに、委員会開催の実際にこれが貫かれなかったのは腑に落ちなかった。

現時点では、過半数を超えない議員で委員会を構成し、委員会付託前の本会議質疑を充実させて、完全に公開されている本会議で、議案を審議することが大事だろう。

補正予算は事業精査が足りない

補正予算にシニアカーとマイクロバスの実証実験と企業誘致の予算が出された。どちらの事業の自治体としての準備不足を強く感じた。実証実験なので不十分な点があってもかまわないが、しかし、議員の質疑に十分に答えられるレベルには達していないものだった。シニアカーとマイクロバスについては、実証実験を行って、どのようにして実際の事業を立ち上げるかさえ答弁が出てこなかった。
企業誘致の話は、ヒアリングのときから話が揺れた。今回は事業を認めるという内容で質疑をまとめたが、議会の審議にかけるという点で疑問の残るものだった。企業誘致を推進する体制が役場の中にないなか、役場が準備した内容に疑問点が出ることが多かった。したがって賛成した後も心配が尾を引いている。今からでも企業誘致を行っていた経験をもった住民の力を借りて、法律や規制をきちんとクリアできるようにしないと、落とし穴にはまるのではないかという心配がある。
アクアイグニスという会社の注文に応じて、企業誘致のための用地買収をかつらぎ町が行い、造成なしにアクアイグニスに買収用地を、長が購入した価格で転売するという事業だが、議会で明らかになった課題として、農業振興の用地からの適用除外、農地の宅地転用、開発許可の申請、企業の側の開発計画などが見えてきたが、きちんと法律を踏まえた上で、全ての課題をクリアする必要があるし、法律違反を絶対に犯してはならないという点でも検討しなければならないことが多く存在すると思われる。

質疑の後、「これでいいですか」と聞いてきた職員もいたが、本音で言えば、「急ぐのはいいが、急いだとしても議会に内容を精査して出してきてよ」という気持ちだった。

安倍元首相の国葬儀の中止を求める意見書は否決

本会議の最後のテーマは、安倍元首相の国葬儀の中止を求める意見書の審議だった。ぼくが提出者だったので意見書案を読み上げて質疑に答えた。質疑をしたのは2人。反対討論が3人。反対の趣旨は、安倍元首相の功績は評価されるべき、マスコミが反対を煽っている、国に意見書を上げるほどのものではないというものだった。採決の結果、賛成が3人、反対が9人だった。

国に対して意見書を提出するとき、いつも胸の中にあるのは、「何よりもまず 正しい道理が通る国にしよう この我等の国を」という作家の広津和郎さんの言葉だ。この言葉は、広津和郎さんの著書から得た言葉ではなく、知ったのは作家藤原審爾さんの小説の後書きに書かれているものだった。藤原さんの自宅の色紙に書かれた言葉なのだという。
日本国民には、国民主権がある。この主権がまっすぐに通る国になっているのかを問うと、「否」という答えの方が多いだろう。国民の知り得ない深淵な真理があって、国民の浅はかな思いでは知り得ないことがあるかのように、政治と国民の意思とは食い違う。新人議員が6人。まっすぐに政治を見つめ、是々非々で物事を判断するだろうかと思っていたが、今回は国民の多数の意思が反映するような結果にはならなかった。
国葬には法的根拠がない。内閣府設置法も法的根拠にはなり得ない。それは戦後の歴史的経過からもはっきりしている。これを、議会という法律を一番大事にする機関で貫けないところに、日本の民主主義の危うさがある。
国民が怒っている中心には、法的根拠がないこと、法的根拠がない「国葬」に税金を使うなということだ。これは極めて当たり前のことだろう。そんな批判が起こらないようにしてほしいというのは、至極当然ではないだろうか。当たり前のことが当たり前に貫かれる社会から政治はかなり遠いところにある。

安倍晋三さんの葬儀は、身内の方々によって終了している。終了した上で9月27日の国葬儀が行われる。安倍さんの死が政治的に活用されている。内閣と自民党による合同葬でいいのに、国葬にする必要はないのに。そう思う。
個人的には、人の死をもてあそんで、国民世論を分断するようなことになっていることに悲しみを感じる。安倍さんの死を悼み、公式なお別れをしたいのであれば、国民の多くが了承する形を取ればいい。国民世論が二分するようなことを選択する政府の在り方がおかしい。国葬は憲法14条の法の下の平等に反し、憲法19条思想及び良心の自由に反する。

この問題に対して、意見書を上げるほどのものではないという討論もあった。控えめな意見だと感じつつ、憲法違反を平気で積み重ねるこの国の政治に対して、主権者は声を上げないといけないのではないかと感じた。憲法を守るべき内閣が、憲法を踏みにじるとき、政治は深い危機に陥る。

「何よりもまず 正しい道理が通る国にしよう この我等の国を」

この言葉を胸に刻んで、これからも生きたい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明