高校の見学に行った

雑感

娘を連れて高校を見に行った。
1000人を超える人々が、体育館前に集まっていた。
教頭先生の司会で説明会が始まり、校長先生が、あいさつをおこなった。
そこから、次々に話が繰り広げられた。生徒会の挨拶や生徒によるプロジェクターを使った学校の紹介などもあった。
学校の話を聞きながら、少し醒めていた。

学校間格差は、全県一区の学区制を作ったことによって、見事にランク分けがなされている。高校時代が思い起こされ、学校間格差が高校生集会で議論になっていたことが頭をよぎった。学校間格差問題は、死んだテーマになって忘れ去られている。時代は大きくカーブを描き、歪みを生み出した。
進学校は、試験を通じて自由に生徒を選抜できるようになっている。先生方は、学校の校風を語り、校訓を語り、望ましい生徒像語る。こういう語りが、リアルな現実性を持っている。
均質なる学校による均質な生徒の育成。純粋培養。それは、ある種、多様性の欠如を意味している。突っ張っている子も、勉強する子もいた高校は、全県一区という制度によって、学校による色彩も鮮やかに峻別が行き届いている。

困難校では、授業が成り立たず、退学者があとをたたない。進学校では受験勉強とクラブ活動の両立などが具体的な目標になり、それについてくる優秀な生徒がいる。この傾向が、年を追うごとに強まり、次第に中学校にも波及していく。
こういうことを徹底的に繰り返していると、次第に衰退すると思えてならない。人間の階層化は、社会の格差につながり、社会の格差は、貧困へとつながる。それは、結局社会を破壊する作用を生み出すように見える。

戦後、日本の本来の義務教育の目標は、すべての子どもに、等しく教育を行うところにあった。分かりやすくいえば、「すべてのこどもに100点」を取らせる教育が、日本の目指した教育の姿だった。しかし、この理想は、かなり早い段階で捨てられてしまい、大規模な落ちこぼし教育がまかり通るようになった。これを促進したのは、受験競争という仕組みだった。貧困がここに影を落とし始めると、学力の二極分化は目に見えるようになり始めた。できる子どもとできない子どもへの分裂。それは、できない子どもの数を増大させながらの2極への分裂だった。

せめて、自分の地元のかつらぎ町で、小中学校を通じて、本当に全ての子どもたちに学力を保障するような努力を始められないか。そういうことを考えはじめている。説明を聞いているとこんな考えが浮かんできた。


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雑感

Posted by 東芝 弘明