「暗がり峠」を読んで

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朝から庭の掃除をして、枯れ枝を事務所の空き地にもって行った。
いっしょについてきた娘は、空き地に添って勢いよく流れている水路に葉っぱを流し、流れるスピードを楽しんでいた。
「お父さん見て。見て」
声が弾んでいる。
帰ってから、枝や葉を運んだ車には、枯れ草や枯れ枝、枯れ葉がたくさん落ちていたので、家の庭に車を停めて掃除機で吸い取った。
「1時間ぐらい手伝ってくれたら綺麗になるやろ」
妻の語調はきつい。ちょっとは家のことをしてよねという妻の言葉がご苦労さんという言葉に混じって聞こえてくる。
午後、2時からは総合文化会館で上映された「フラガール」を家族3人で見に行った。
この映画については、フラダンスの映画というだけの予備知識しかなかったので、映画を見て驚いた。
常磐炭鉱の炭鉱会社が、フラダンスのセンター「常磐ハワイアンセンター」を作るとういう話だった。
まったく予想外の話にすぐに引き込まれていった。
「涙なしには見られない」
久しぶりに映画を見て心底、感動した。
帰ってから、プレゼントしていただいた「さぬかいと」という民主文学のサークル誌に掲載されている「暗がり峠」(かがわ直子著)を読んだ。小説の舞台は橋本市。橋本市議会議員選挙で知り合いになった方をモデルにした短編小説だった。このサークル誌は、かがわさん本人にお願いしていただいたものだった。
小説を書き続けていらっしゃるかがわさんという方は、優しい感じの女性である。
身近に存在している出来事を題材にして、設定を巧みに変え小説世界を構築する。実際の地形や人物をある程度知っているだけに、作品構築の工夫が見えて「面白いな」と感じた。虚構を設定して、テーマに沿って自由に書くことの面白みみたいなものも、感じとることができた。
ぼくは毎日Blogを書いている。文章を自由自在に書くために。しかし、ここで書いている文章は、達意を目的にしたものである。議員の活動や議会での活動も書き、政治のさまざまな問題についての論考や日頃思っていることを論考的にまとめているので、これは、エッセイとも違うし、小説などとはほど遠い文章になっている。
小説を書きたいという思いは、20代の頃からある。しかし、習作程度しか書いたことがないし、それも未完のままだから、小説を書き上げたという体験がない。
作品世界を構築しながら、人間の思いや行動、出来事を描写を中心に書くというのは、文章を書く行為の中では、かなり特殊なことだと思う。
小説という文章作法は、小説の世界にしか存在しない。ぼくはそう思っている。
しかし、そういう文章を書くのは、楽しいだろうな。そんな感じを「暗がり峠」から感じ取ることができた。
作品のラストに、「9条の歌」の一節が書かれていた。登場人物の秋月さんが車の中で歌い始め、それに主人公の隆介が自然と声を合わせるというシーンだった。
描写によって人間の心の動きや思いを描きながら「9条の歌」を紹介すると、この歌のもつ意味が、秋月さんの思いに重なって、際だってくる。
昨日、この歌が歌われるのを9条の会の総会でも聞いたが、小説の中に位置づけられて歌詞を読むと感慨が強まってくる。文脈の中で言葉が生きる──これが小説の力なのかも知れない。
今日は1日、家族3人で過ごした。
娘は、ぼくが近くでいたのでいつもよりも嬉しさがはじけているように見えた。


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Posted by 東芝 弘明