和歌山大空襲の話を聞いた
夕方から集金に行き、憲法の話をすると、老婦人から和歌山大空襲の話が出てきた。
和歌山大空襲は、1945年7月9日、和歌山市のブラクリ丁や県庁、和歌山市役所、和歌山城、和歌山駅、和歌山市駅など和歌山市の中心地域を焼き尽くした。ブラクリ丁の丸正百貨店の5階建てのビルに逃げ込んだ人もお城の堀に飛び込んだ人もみんな死んだという。中学1年だった老婦人は、15歳の兄を先頭に2歳の幼児まで6人の子どもたちの中の1人だった。子どもたちの父は、右に3人、左に3人手をつないで紀ノ川まで逃げた。
紀ノ川にも焼夷弾が雨のように降り注いでいた。女学校に通っていた彼女の同級生もたくさん亡くなった。
次の日、「自分の家は焼け残っているかも知れない」と父が言い、姉と2人で見に行ったが、途中、火事の熱で進めなくなったらしい。自宅が全焼していたのは、焼け野原になっている和歌山市の光景を見ると分かったそうだ。
「戦後、和歌山市内のもとの場所に家を建てることができたんですか」
ぼくの問いかけに現在のI市に移って、したことのない農業に従事し、家族7人で生きたのだという。
「母親が3月になくなったばかりで、悲しみにくれているときに、空襲にあった。戦争は、どもならん。忘れたくてもよう忘れやん」
老婦人は、おさえた口調で言葉をつないだ。
「女学校には戻ったんですか」
「学校は紀三井寺にあったんやけど、家から遠くなったし、貧しかったからやめてしもた」
戦争が終わってから生活を一から立て直すのに随分苦労したという。
日本政府は、国民に対してこういう戦争を引き起こしたことを真剣に反省していない。
ドイツは、空襲の犠牲になった方々にも保障をしている。
日本とドイツとイタリア、3国軍事同盟(日独伊防共協定)は、共産主義から守るという名目で、すさまじい侵略戦争を展開した。
こんなことを書いていると、戦争の描き方について書いてみたくなった。
「日本を守るために戦場に行った」
こういう描き方が、最近増えている。
しかし、これは侵略戦争という事実をあべこべに描く言い分ではなかろうか。
「愛するものを守るために戦争に行った」
こちらの方はどうだろう。
赤紙1枚で召集された人々に、家族を守るために戦場に行くという感情がどれだけあったのだろうか。
強制力をもった召集が、家族や恋人との別れを意味したことを考えると、愛する者のために戦場に行くということは考えがたい気がする。
「一旦緩急あれば、義勇公に報じ」という教育勅語が頭に浮かんできた。この教えからすると、愛する者のために戦場に行くというのは、教えに反した考え方になりそうだ。
「私のために生きて帰ってきて」
ということすら公衆の面前で言うことができなかった時代のなかで、もし、「愛する家族を守るために出征する」という人がいたとすれば、
「貴様、間違ったらいかんぞ。我々は天皇陛下の軍隊、皇軍である。天皇陛下に命をあずけて戦地に行くんだ」と諭されそうだ。
天皇の軍隊は、家族のためにあったのではなく、国家のためにあった。「愛する者のために戦場に行く」というニュアンスは、戦後、時計の針を逆に回すために、映画を作り、その中に埋め込もうとした戦争美化の考え方のような気がする。








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