頑固と柔軟の共存

雑感

3日間ぐらいで共産党関係の文書を作成しようと考え、文書を書き始めた。今回は、ある程度文章に潤いを盛り込もうと考えている。簡潔な文書を書き始めると、なんだかジグソーパズルのようになってくる。それを重ねていくと無駄はなくなるが潤いも失われる、と思っている。主語を立てていくと読み応えがなくなる。主語のない文章の方がいいと思っている。

新聞の記事を読んでいても主語のはっきりしない文章は多い。最初の部分に「はじめに」を置き、それぞれの組織が現場で、日本共産党を代表して活動していることを書いた。自分たちの生きている現場で、自分たちの頭で状況を分析しつつ、理論と運動を組み立てていく。そのために科学的社会主義を学んでいる。生きている現実の具体的な分析。そういう力を身につけてくれる理論が科学的社会主義だと思っている。

ただ、そう思って科学的社会主義を学んでいる人はどれだけいるだろうか。学んだことから現実の中にある「学んだここと」を見つける人の方が多いかもしれない。このような学び方は、学んだことに当てはめて現実を見るということになる。それでも生きていくことはできるが、そういう学び方は底が浅い。そういう学び方は、学んだことで現実を切り取る行為になる。切り取られてしまった事実に、本当は大事なことが含まれていることがある。

事実をできるだけフラットに捉え、事実の中にある事実と事実のつながりで調べていることを捉える。その中から組み立ってくる理論。これは、帰納的な考え方、研究方法と言えるだろう。事実に対して謙虚になって、この事実の把握の中で考え方を深めていくという学び方、分析の仕方をしていると、事実に対して謙虚な姿勢が身につく。これを繰り返していくと、自分の問題意識が、崩壊して再構築されていくのを感じる。自分の問題意識が崩壊し再構築することに喜びが生まれてくる。
問題意識をもって、現実を見ていく努力は、演繹的なアプローチだと思っている。問題意識をもたないと問題へのアプローチはできない。その意味で演繹的アプローチは、研究の出発点で不可欠である。しかし、問題意識が現実と大きくずれているときは、大きな間違いを起こす。
頑固でありつつ柔軟であるためには、「帰納」と「演繹」という論理が必要になる。

具体的な事実の具体的分析のためには、以前にも書いたが、少なくとも「帰納」と「演繹」や「本質」と「現象」との関係、「普遍」と「特殊」の関係などを把握しておく必要がある。本質と現象、普遍と特殊は文学でいえば「典型」という捉え方につながる。この「典型」という考え方は一般質問の場合、極めて大きな力になる。具体的なリアルな問題を通じて問題点をえぐる。この問題に答えると問題の本質が見えてくるということを重ねることが、質問を実らせる力になる。

党員と党組織が現場で、自分の頭で考えて分析し方針を立てることなしに、日本共産党を代表して活動することはできないだろう。しかし、党の規約はすべての党組織にこのことを求めている。これは大変なことだが面白いテーマでもある。問題を自治的に解決するということはそういうことだろう。

29回党大会決定は、決定した瞬間に新しくもありかつ古くなっていく。事実はたえずダイナミックに理論を超える。理論と事実にはこういう関係にある。いついかなる場合も理論は現実を超えないと思っている。したがって、党大会決定から学ぶのは、分析の精神であったり、命題の本質であったりする。党大会決定を貫けば、現実を変えられることはあるが、そこに本質があるとは思わない。現実の中に方針を具体化すると、そこには必ず面白いほどリアルな工夫が生まれる。理論はいつの場合も導きの糸。このことを知っていれば、機械的な理解を退けることはできる。そんなことを考えながら文章を書いていた。


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雑感

Posted by 東芝 弘明