Tさんのお通夜に行った

雑感,出来事

新堀行雄議員が亡くなったのでお通夜に参列し、そのあと新城のTさんの通夜に向かった。新堀さんの告別式にも出席する予定なので、今日はTさんの通夜のことを書いておきたい。
Tさんは、ぼくの1級下のK君のお父さんだった。古いお家のすぐ近くに新しいお家を建てて奥さんと2人で生活されていた。後援会ニュースを受け取ってくれていて、2年前の選挙の時、終わってから訪問すると、選挙はがきが届いたと言って喜んでくれていた。

通夜は6時からだったので、もう通夜式が終わって、親戚や家族の方々は食事をされていた。式場の右手から声がしたので、食事の場所の入り口に立って、会釈した。家族の方々が気がついて出てくてくださった。その中にK君もいた。
K君のお兄さんが喪主をされており、お兄さんとお姉さん、K君の3人が兄弟だった。お姉さんはかつらぎ町に住まわれていて、K君とお兄さんは和歌山市内にいるのだという。
「東芝さんやね」というところから会話が始まった。
「東芝(とうしば)です。ひがししばです」というと、「弘明君やね」と言葉が続いた。「お兄さんはどうしてる。妹さんは?」という言葉も次々に出て、「兄と妹も和歌山市に住んでいます」という話をした。
そこから母親の思い出が出された。
とある夏休み、ぼくの母の教え子だったK君のお兄さんが語りはじめた。
「毎日、夏休み中ずっと九度山にある歯医者さんに治療に連れて行ってくれた。よう忘れやんわ」
「紀伊細川の駅まで歩いて、電車で毎日。そのときに詰めてもらった銀歯は、最近までもってた(維持)んやで」

新城の人と母との関係は本当に深かった。ぼくは小学校を卒業するまで子どもとして生活し、いたずらばっかりしていた子どもだった。新城の人々が、ぼくに気持ちを寄せてくれているのは、母親の面影によるものだった。母は地域の人々に深く信頼されていた。
K君のお姉さんは、学校の先生となり、かつらぎ町で暮らしている。子どもの頃、ぼくの母親が「君が代」の歌詞の意味を教えてくれたのだという。どうして歌詞の意味を教えてくれたのか、大人になってからいろいろ考えさせられたというお話だった。
ぼくは、
「母は入院しながら日記を書いていて、8月15日が来るたびに戦争のことばかり書いていました」という話を少しした。人は、心と心を通わせながら生きている。誰もみんな時代の中で生きている。時代と関わりながら生きて、心と心を通わせている。そこに喜びも悲しみもある。

母の人生は52年という短さだった。ぼくは母よりももう12年も長く生きている。小学校の先生として終戦を迎え、戦後の民主的な教育への転換を心と体で深く感じながら生き、病気になる前に日本共産党員となったが、具体的に活動することは叶わなかった。子どもだったぼくは、母の思いを知ることはなかった。残されたノートを読んで気持ちを汲み取るだけのことが許された。
ぼくは、母の思いなど全く知らないで、18歳のときに日本共産党に入党した。でも、母の歩いた道の先にぼくの人生があったと思っている。新城の人々の中に残る母の面影に触れるたびに、ぼくは母と同じ道を選んだことの深さを感じる。

Tさんの遺影に手を合わせてK君やK君のお兄さんの顔を見た。亡くなられたお父さんと同じ優しさが顔に表れている。
ご冥福をお祈りします。


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雑感,出来事

Posted by 東芝 弘明