娘の音楽教室発表会

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今日は娘の通っている音楽教室の発表会。
ピアノで2曲演奏し、みんなでリコーダーで曲を演奏した。
リコーダーは、ぼくたちの時代は縦笛と呼ばれていた。
ウキペディアには、こんな説明があった。

リコーダーは、プラスティック(ABS樹脂)製のものが千円台から市販されており、構造が単純で堅牢であり、バイオリンやギターのように調弦(音あわせ)の必要も事実上ないので、年少者の入門楽器として適している。一方、吹奏楽器のため演奏しながら歌う「弾き語り」ができないことや、音の強弱をコントロールすることができないため曲想をつけづらい、つまり「弾ける」が「奏でる」ことが難しいことに対する批判もある。
また、小学校低学年でも演奏を習得し始められることの反動として、一部にはリコーダーをおもちゃ楽器として見下す風潮もあるが、その表現力を極める技能を修得するためにはそれなりの才能と努力と必要とすることは他のすべての楽器と共通である。


100均にも売っているが、音程がおかしい。貧困が広がる中で、100均で買ったリコーダーを学校にもってくる子どももいるという話がある。
娘ががんばって演奏したので、高野口町の楽やに行った。夜は、橋本市で会議。
相変わらず暑い日が続く。夜になると外気温が心地よくなった。田んぼの稲が実りはじめ、頭を下げはじめている。
実るほど頭の下がる稲穂かな
実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな
家族で喫茶店にお茶を飲みに行った時に田んぼの稲穂を見たが、この句が頭に浮かんだ。調べてみると読み人知らずとあるし、2つの言い方があることが分かった。
小林一茶ではなかったんだなあ。ぼくは、小林一茶の句だと思いこんでいた。
実は、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という心境になるのは、ものすごく難しいことだと思っている。豊かな知識を持ち、知恵ももつ人が「頭を垂れる」状態になるためには、自分の知や智の小ささを自覚することが必要なのではないだろうか。
知れば知るほど、知らないことの大きさを自覚していく人だけが、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という心境になるのではないだろうか。
智を深めることは、無知の知を自覚することにある。ということだろう。
しかし、これは、人智の及ばないものに対する畏敬の念ではない。
知れば知るほど、知らないことの多さに驚くということだ。
実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな  というのは、
言うは易く行うは難し  ではなかろうか。


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Posted by 東芝 弘明