新城小学校の閉校式に参加して

雑感

和歌山県かつらぎ町立新城小学校の閉校式が、午後1時30分から新城小学校の講堂で行われた。閉校式には、地元の住民の方々、卒業生、山村留学の卒業生、元校長先生、教育委員会の職員等々、200人を超える人々が参加した。来賓には、議長をはじめとして文教厚生の議員が出席した。

閉校式は、教育委員会総務課の松岡課長の司会で始まった。
新城小学校は、135年の歴史をもって、本日、幕を下ろした。
話を聞いていると、いろいろなことが思い出されてきた。

北の山と南の山の間を貴志川が流れる地域は、山と山とに囲まれた細長い村である。新城小学校は、貴志川と湯子川が合流するところにある。急な坂を駆け上ったところに学校の校門があり、坂を登ると小さな校庭が目の前に広がり、一番奥に学校の校舎の玄関が目に入ってくる。
新城の四季は美しい。
春は、レンゲが咲き乱れる田んぼででんぐり返りをしてよく遊んだ。ぼくたちの子どもの頃は、水田が多かったので、田んぼが一番の遊び場だった。女の子は四つ葉の花を繋いで輪を作り髪飾りにしていた。
学校はそびえ立つ山の直ぐ下にあったので、春になると教室の中にウグイスの声がよく響いてきた。
5月の空は抜けるように青い。晴れた日は田んぼの畦にあった物置用のトタン屋根の上にふとんを干した。ぼくはよくそのふとんの上に寝転がって、仰向けになり雲の流れを飽きずに見ていた。青い空と白い雲。時間が止まったかのようにゆっくり流れていた。
その頃は、山彦がよく響いた。山と山との距離が短いので、「おーい」と声を掛けると「おーい、おーい、おーい」とこだまして小さくなって消えていく。
6月の終わり頃だろうか。貴志川には蛍が乱舞する。新城小学校の坂を下りたところに貴志川を渡るための橋が架かっており、蛍はその橋の上にもよく飛んでいた。
夏になると貴志川には放流された鮎が登ってくる。透明な水は、鮎が群れをなして泳いでいるを全部見せてくれた。鮎の群れは川の魚とは全然違うので、一目で見分けがつく。鮎は泳ぎながら腹を返す。日の光が鮎の腹に当たるとキラキラと光りを弾く。
ぼくたちは、貴志川と湯子川で朝から夕方までよく遊んだ。夕方、川の魚(子どもたちはジャコと呼んでいた)たちは、水面すれすれに飛んでいる虫を食べるためにぴょんぴょん跳びはねる。薄暗くなった川面に跳ねるジャコを見るのが好きだった。
秋は、本当に山が燃える。子どもの頃は、今以上に気温の差が大きかったので、絵具の原色よりももっと鮮明で鮮やかな紅葉を見ることができた。
12月になって、あられが降り、初雪が降ると本格的な冬がやってくる。地球温暖化が深刻になっていなかった子どもの時代、新城は初雪が降ると冬の間に降るのは雪ばかりだった。学校は、1年に1日ぐらいは必ずどか雪が降って休校になった。石垣の間からしみ出してくる水がつららになるので、ポキンと折ってなめたりした。
朝起きて雪が降って積もっていると、太陽の光が雪を弾くので、磨りガラスであっても雪が積もっているのがよく分かった。窓を開けると南の山のふもとにあるシュロの葉っぱに雪が積もっているのが見えた。
冬の夜の星を見上げると、白い息が夜の空間に消えていき、空のずっと奥の天井に張り付くように星が見える。天の川が帯のように空に横たわっている。

透明な空気、透明な川の水、深い緑、白い雪。そういうものに包まれて育った経験は、その場所にいて、その場所で生きて、生活したものにしか味わえない。映像の美しさとは何かが根本的に違う。自然が体の中にしみ込むとしかいいようがない。

ぼくは、この小学校を昭和47年(1972年)3月に卒業した。同級生は、男6人女6人の12人。24の瞳だった。
北の山の直ぐ下にある木造の小学校は、ぼくたちが6年間を過ごした頃とほとんど変わらない。
「原風景」という言葉がある。辞書を引くと「原体験におけるイメージで、風景のかたちをとっているもの」と書かれている。「原体験」は、「その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの」とある。新城小学校は、記憶の中にある「原風景」ではなく、今も目の前にほとんどその姿を変えないまま残っている「原風景」だ。

教室は3つしかない。ぼくたちはこの教室で、1、2年生、3、4年生、5、6年生という3クラスに分かれて複式の授業を受けた。同級生に近い形で一つ上の学年と一つ下の学年といっしょに過ごしたという経験をみんなが持っていた。

ぼくたちが入学した頃60人ほどいた児童数は、卒業する時点では37人になっていた。
その後児童数は減少の速度を速めていった。ぼくたちが卒業して10年後、新城小学校で山村留学の取り組みが始まり、小学校の新しい歴史が開かれた。中心になって推進したのは浦正造さんという方だった。昭和57年(1982年)4月、9人の留学生を受け入れて以後、新城地域は数多くの留学生を迎え入れていくことになった。留学生を受け入れた家は「里親」と呼ばれた。受け入れたのは、ぼくたちの親に当たる世代の方々だった。
この新城小学校が幕を閉じるのは、多くの人々の思いを折りたたむようなものだと思う。アルバムが思い出のシーンを折りたたんでいるように、人々の記憶の中に新城小学校がていねいに折りたたまれていく。

議員としては、この校舎を残しつつ再生する姿を考えたい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明