人間不在の政治とのたたかい

雑感

民主党と自民党、公明党の密室協議の内容を読んでいると、この国の政治は、江戸時代のようなものに突き進んでいるとさえ思えてくる。
自民党が攻撃のターゲットにしているのは、社会保障や福祉だ。この分野の制度はできるだけスリムな方がいいという観点で、民主党のマニフェストが実現しないように、徹底的に民主党に揺さぶりをかけ、それを飲み込ませた形になっている。
民主党の野田首相は、消費税増税を実現したいがために、自民党と公明党の要求を丸呑みした形になった。

民主党+自民、公明=政治の悪化という図式が成立している。なんという悲しい方程式だろう。この国の政治は、国民に苦しみを、大企業に利益をという点で一貫している。

唯一、若干の手直しになったのは子育て新システムだ。「市町村が保育の実施義務を引き続き担うこととするなどの修正を行う」として、「総合こども園」は撤回して「認定こども園」の拡充で合意している。これは、民主党が保育義務を市町村からなくす動きにストップをかけたものの、自民党流の幼保一元化をすすめるものだ。しかし、これさえさらなる改悪にチャンネルを開くものになっている。新自由主義路線の若干の手直しでしかない。

社会保障の全体の考え方は、「自立を家族相互、国民相互の助け合いの仕組みを通じて支援する」ことを社会保障の基本にするというのだから、これは、江戸時代か、明治の社会体制に他ならない。合意の具体的な内容には、保険のきかない医療と介護を広げる、社会保障背番号制度の早期導入、生活保護の全面改悪が入っている。社会保障の範囲を一掃せばめながら国民を監視と管理に置くというのは、社会保障は骨と皮だけ、監視と管理は徹底的にということだ。国民一人ひとりを監視体制下におくことができるのは、コンピューターの発展による。これは、明治時代よりも悪い方向だ。

自民党は、最低保障年金制度を敵視し、「保険料を納めていない者に年金を出すのは問題だ」という考え方を前面に出してきた。日本国憲法の生存権を否定するような考え方でいくと、最低保障年金は実現できない。この考え方では、現行の年金給付の底上げはできない。

消費税増税そのものについては、低所得者対策の課題を先送りし、転嫁できないで苦しんでいる中小企業対策も具体的には言及しないままになり、所得税の累進課税の強化も先送りにした。

東日本大震災と福島原発事故は、今までの国のあり方を根本的に問いただすだけの大事件だった。多くの心ある人々が、政治への関心を強め、自分がどうあるべきなのかという真剣な考察を行い、政治や社会への関わり方を変えてきている。真摯な発言と勇気ある行動が、人々を動かしている。そこには真剣な反省がある。
しかし、この国の政権党や元政権党は、東日本大震災と福島原発事故を通じて、政治をいっそう悪化させている。国民の命を救う政治へと転換を図るどころか、消費税増税、大企業減税、社会保障解体、原発再稼働へと政治を進めている。国論を二分するような状況が生まれているのに、そこから出てきた政治は、政治と経済を破綻させるような暴走だった。
震災の被災者支援と原発事故の被災者支援という視点が、政治の中心に座っていない。自分たちが行ってきた政治への無反省、無責任、無感覚が横たわっている。民主党と自民党にとって、大震災と原発事故は、深い反省をうながす事件ではなかったということだろう。
なぜ歴史の教訓に学ばないのか。自分たちの胸に手を当てて自分たちが政治でしてきたことに対する反省、真摯な気持ちというものはないのだろうか。
なんという政治だろう。驚きと怒りを禁じ得ない。

「わたしにつながるいっさいのにんげん、にんげんをかえせ」
この人間不在の政治とたたかわなければ、日本の社会は変わらない。


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雑感

Posted by 東芝 弘明