ファシズムが生まれてくる土壌

雑感

昨日の続きをもう少し。
橋下さんのファシズムの手法は、公務員を攻撃するところにあると書いた。ファシズムは仮想敵を作り上げる。そこを徹底的に攻撃することによって、住民の中にある不平・不満を解消する。格差と貧困で苦しんでいる人が、「公務員は恵まれている、楽している、特権的な地位にあって裕福だ」という批判を聞いて、「そうだ、そのとおり」となり、この公務員の徹底的な改革をおこなえば、経費を削減でき、財源も生み出され、世の中はよくなるという話をする。
小泉さんの郵政民営化の時の論法はまさにそうだった。郵政を民営化すれば何もかもうまく行くという宣伝をかなり大胆に行っていた。公務員を徹底的に攻撃すれば、国民は溜飲を下げ一時的に満足するという仕組みだった。

公務員攻撃とは、一体何だろうか。これは、一言でいって弱い者いじめに酷似している。なぜ公務員は弱い者なのか。国家公務員の中のキャリアと呼ばれている官僚は、国家権力の一翼を担っているので、本当の意味での攻撃対象にはなっていない。民主党は、官僚政治の打破と言っていたが天下りさえ禁止できないし、官僚の特権的な役割にはメスが入らない。なぜメスが入らないのか。答えは単純なことだ。結局自民党と民主党のブレーンとして官僚機構は機能してきた。その結果、政治権力によって官僚の特権は温存されてきた。天下りがなくならないのはここに原因がある。
今行われている公務員攻撃の最大のターゲットは、地方公務員や学校の先生だろう。日本の公務員は、労働3権(団結権、団体交渉権、団体行動権)のうち、団結権は保障されているが、他の2権は保障されていないので、自由な労働運動を行う上でも大きな制限がある。また、自由な選挙活動という点でもその制限は極めて大きい。こういう位置にある公務員は、徹底的に攻撃されても反撃することがなかなか困難だ。公務員攻撃にはこういう構図がある。
これは弱い者いじめではないだろうか。

公務員改革を行えば、矛盾が解決して国民の暮らしはよくなるというのは、全くのデマ宣伝だ。郵政民営化で日本社会はよくなったのかといえば、全くそんなことはなかった。郵便局の便利さが犠牲になったし、そもそも郵政民営化と国民の生活向上とは次元の違う関係のない話だった。これは、今日の視点からいえば明らかではないか。

ファシズムは、仮想敵を設定して、徹底的にそれを攻撃し、国民の格差と貧困から生まれる怨嗟を解消し、国民の熱狂的な支持のもとで次第に反動的な体制を組み立てていく。
大阪維新の会は、君が代問題で式典の際に起立しなかったら処分する条例を提出し強行可決した。その後提出した「教育基本条例案」「職員基本条例案」は、知事が決める「教育目標」や「職務命令」で教職員、府職員を縛り上げ、「職務命令違反」を3回、「5段階相対評価」で最低ランクが2回続いたら首を切るというものだった。まさにここには、ヒットラーばりの手法があらわれている。
現時点では、このデマ宣伝に吸い寄せられて、この2つの条例案に賛成している府民もかなりの数に上る。ここに恐ろしさがある。

なぜ、大阪府民の中で地道に活動していない、組織もほとんどない「維新の会」が圧倒的多数の府民の支持を得るのだろうか。それは、大阪府民の中に格差と貧困に対する怨嗟が渦巻いており、政治に対する不満が頂点に達しつつあるという状況を抜きにしては考えられない。公務員を徹底的に攻撃して、大阪府を作りかえるという橋下さんに強烈な支持が集まるだけの不満が住民の中に溜まってきている。

日本共産党は、こういうデマ宣伝ではない本物の改革を唱えてきた。日本社会を根本的に変革するためには、日本国民の苦しみの根源であるアメリカへの従属と日本の巨大独占企業による経済と政治のコントロールを打ち破ることが必要になっていると訴えてきた。
日本社会は、アメリカの意向と財界の圧力によって、政治が著しく歪められてきた国だ。このことは次第に国民の目にも見え始めている。
しかし、根本的な変革を訴えていくと、「そんな大それたことが実現できるのか」「日本共産党はそんなことをいうが、それは非現実的なことではないか」「世の中はそんなに大きく変わらないのではないか」など、このような批判も寄せられてきた。日本共産党の改革方針は、日本社会の中に巨大な影響力を持っている最も強い勢力によって歪められている現実を根本的に変えて、憲法の原則が生かされる民主的な日本をつくろうというものだ。
アメリカによる対米従属的なものを打ち破ろうという課題は、アメリカという国を打ち倒すというものではなく、日本とアメリカの関係を対等平等な関係に改めようというものだ。従属関係の根本には軍事的な関係と経済的な関係があり、この関係を規定している条約が日米安保条約だ。
日本の巨大な企業の影響力を排除するという課題は、日本の企業をぶっ壊すというものではなく、企業の利権によって左右されている日本の政治を国民の手に取り戻し、文字どおり国民主権の日本を名実ともに実現しようというものだ。

ここには、日本の政治と経済の根本問題を見すえた問題提起がある。歴史は、どれだけ強い勢力を誇ってきた権力も、闘いの中で衰退し、次第に国民の自由と権利を拡大する方向で動いてきた。江戸幕府が滅んだように、アメリカの一方的な支配、大企業の横暴な支配という現在の関係も未来永劫続くものではなく、国民主権が文字どおり実現する時代は、近い将来現実のものになるというのが、日本共産党の歴史に対する認識だ。

反撃も大規模に出来ない勢力を敵に仕立て上げ、徹底的に批判し、国民の関心をそこに集中させながら反動的な支配の仕組みをつくるというファシズムの手法と日本共産党の路線は、まったく違っている。
恐ろしいのは、資本主義という政治的経済的体制は、民主主義を一定発展させるだけの力ももっているが、ときにはファシズムとさえ手を結ぶ危険性を持っているということだろう。
資本主義=自由ということではない。資本主義の下で自由と民主主義が発展してきたのは、生産手段を何も持たない労働者階級が時代に社会全体の中で一番大きな勢力になり、この勢力を中心とした闘いによって勝ち取ってきたからだ。一つ一つの闘いが自由と民主主義を形づくってきた。資本主義は多くの無名の人々の闘いによって、自由と民主主義を受け入れてきた。

新自由主義という経済路線は、資本主義の先祖返りのような側面を持っている。この路線は、日本においては構造改革という形で具現化されてきた。構造改革は、改革という名で、戦後確立してきた民主的な諸制度を破壊する極めて反動的な改革だった。国民が闘いによって勝ち取ってきた自由と民主主義を攻撃の対象にして改革を進めているのが新自由主義だ。
ファシズム勢力が台頭するのは、反動的な新自由主義の流れが、いわば必然的に生み出したものに他ならない。格差と貧困を作りだしたのは、新自由主義の路線だった。この路線は、状況によってはファシズムさえ受け入れる。橋下さんというような勢力が台頭してくるだけの政治的土壌がこの10年間あまりの流れの中で生み出されてきた。格差と貧困、政治不信は、民主的な闘いを発展させるエネルギーを秘めているが、これはその一方でファシズムの温床にもなる。

このような流れの中で、心ある人々は、自由と民主主義を大切にし、社会に対してそれを破壊するものとは徹底的に闘う必要がある。
歴史は繰り返す。だからこそ、私たちはファシズムの台頭を全力ではばまなければならない。第2次世界大戦は、人類の歴史上最大の犠牲を生み出した巨大な悲劇だった。この悲劇を作りだした中心には日本とドイツとイタリアのファシズムがあった。今繰り返されようとしている歴史は、喜劇として終わらせなければならない。第2次世界大戦で失われた5000万人の尊い犠牲の中から生まれた日本国憲法の理想を闘いの武器にして。

雑感

Posted by 東芝 弘明