家庭の教育力?

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「家庭の教育力が低下している」
ぼくは、最近までそう思いこんでいた。
しかし、広田照幸さんの「日本人のしつけは衰退したか」を読んでいると、そもそも、一般的な庶民には、家庭におけるしつけや道徳教育というものはほとんど存在していなかったともいえるような状況に置かれてきたことがよく分かる。
江戸時代から明治時代に時代が移っても、農村地域では、個人の自我の確立という状況にはなく、地域には「おきて」のような社会的なしかも地域限定的なルールが存在した。しかし、このルールは、それから逸脱するものを村そのものから排除するというようなものだった。家庭には、教育力というようなものは存在せず、しつけを教えるというような状況は存在しえなかった。家庭には労働の決まりを教えるということには厳しかったようだ。
学校が制度としてできてきたときに、地域の人々は、学校教育に期待したのではなく、働くことに忙しい中で子どものことは学校に任せっきりという状況にあった。
半封建的な地主制度のもとで多くの農民は小作であり、子どもの身売りも少なくなかった。子どもの身売りは、青森などの東北の厳しい地域では、1950年代になってもおこなわれていた。
都市の庶民の方はどうだろう。
明治初期、そもそも庶民が住む長屋などの貧困地帯では、家族関係さえはっきりせず、父母のいない子どもたちが数多く住んでいるという実態も広範囲にあったという。都市の庶民は、仕事に忙しく子どもに手をかけてやるような時間的余裕がなかったので、小遣いを与えて家から放り出すというような状況だったらしい。
昔は、しつけに厳しく家庭には教育力があったというのは、一般的には存在していなかったということらしい。
しつけや家庭に教育が存在したのは、都市の新中間層と呼ばれる家庭だったようだ。牧師、理学博士、法学士、医者、陸軍少佐、銀行重役、専門学校長、銀行員、鉄道吏員などがそれに当たる。
前後になってようやく家庭教育やしつけが課題になり、教育ママ、教育パパが生まれてくる。しかし、だからといってしつけが広く定着したとは言い難かった。
家庭の教育力が低下しているのではなく、家庭に教育力があったと考える方が事実に合わない。


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Posted by 東芝 弘明