何のために学ぶのか。卒業式で考えたこと。

未分類

笠田中学校の卒業式に出席させていただいた。
卒業式の楽しみの一つは、PTAが毎年作成している文集「波の環」を読むことだ。
この文集には、父母を中心として様々な方々の思いが込められている。今年の文集は、匿名や文集ネームとでもいうような名前で書かれているものが多かった。
こういう傾向には少し驚いたが、書かれている文集には、子どもに対する思いが溢れていて楽しかった。
中学校を卒業していく娘や息子の後ろ姿を見て、「大きくなったね」という思いをもつ親の気持ちを分かるようになり、50に手の届くようになった自分を振り返った。
中学校を卒業するときに、ぼくは親の存在に感謝するような気持ちをほとんど持っていなかった。ぼくの母は、ぼくが卒業したとき、病院に入院していた。卒業したことをどのように伝えたのか、記憶が定かでない。
卒業式の日の当日のことも、そんなに印象深く覚えてはいない。
記憶にあるのは、卒業の日の2日後に高校受験が待ちかまえていたということだ。
笠田中学校から笠田高校まで、子どもの足で歩いて15分程度。しかし、中学生にとって笠田高校は、訪れたことのない遠い存在だった。
高校受験。来賓の席に腰を下ろす直前、「今年の卒業生は、一次試験で何人も落ちているみたいだ」という言葉が聞こえてきた。
進路の問題で、様々な思いを抱えたままの卒業式。
「未来は希望に溢れている」
その言葉が、現実のものになるのかどうか、不安の中の卒業式になった男女もいたということだろう。
なぜ、日本は、15歳になったばかりの中学生に、ものすごいストレスを抱えさせるような高校受験をおこなうのだろう。この受験に向けて費やされるエネルギーは非常に大きい。
その結果、得るものは大きいのだろうか。努力との比較でいうと、得るものよりも失うものの方がはるかに大きいのではないだろうか。
高校受験廃止──ぼくは、真剣にこのことを求めたい。子どもたちの学問への意欲を歪め、学ぶことの意味を見失わせる高校受験というものはもういらない。競争を組織するための学区制の撤廃や1次と2次に分けた高校受験制度は、もう廃止されるべきだと思う。
地元の高校に行きたい人は願書を提出すれば行けるようにしよう。大学まで授業料は無料にしよう。大学は資格試験にして、学びたい分野に進めるようにしよう。
教育改革で一番最初におこなわなければならないのは、受験制度の見直しではないだろうか。この制度を改めていかないと、学力の本当の姿も学問の本当のおもしろさも見えてこないのではないだろうか。
「何のために学ぶのか」
「将来のため」
「自分のため」
「まわりの人の役に立つため」
──これらの回答は、すべて正しいことを含んでいると思う。しかし、これらの答えには、学問をおこなうことによって人間が成長し豊かになることという答えが含まれていない。学ぶことそのものの面白さが語られていない。
学ぶとは堪え忍ぶことなのだ、というような認識が見え隠れしている。
「何のために学ぶのか」
ぼくは、次のようなことをまず答えたい。
「学んで知ることは、視野を広げてくれるということ。
心を豊かにしてくれ、人間を成長させてくれること。
神経細胞のネットワークを発達させ、脳の活動を活発にしてくれ、入り組んで見えないことを理解できるようしてくれること。
発見につぐ発見によって生きる喜びを実感させてくれること。
人類の価値ある知的財産を学ぶことによって、現在と未来を見通せるようになること。
学ぶことによって多くの問題意識がもてるようになり、好奇心と意欲が高まるようになること
学問は、人間を豊かに高め、生物としての人間と人間の社会、地球という自然の関係性を深く知るために存在するということ」
学ぶことによって、人生はより楽しくなる。
学問の神髄を歪めている受験というシステムを何とかしよう。
人間が作った仕組みは、人間の手によって必ず変えることができる。そして、変えるための運動は、人間を人間たらしめる力をもっている。
すべての物事は、変化の中にある。変化の中にあるので、変わらないものは何もない。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

未分類

Posted by 東芝 弘明