七夕、天の川、疑似体験

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今日は七夕。娘が幼稚園の頃は、笹をとってきて願い事を書いた短冊をつるして飾っていたのに、そういうことをしなくなってしまった。
小学生の頃、七夕の季節になると天の川を見上げていた。新城の夜の星は、くっきりとしてきれいだった。空は高かったし、空気は澄んでいた。天の川は、帯状になって空に横たわっていた。それが笠田の街という、ぼくにとっては都会だったこの街に出てきてから、天の川を観ることはなくなってしまった。
街の明るさが星を見えなくした。星がきれいな世界に生きていると、空を眺めたくなる。空を眺めて、いろいろなことに思いをめぐらせていた。見上げても空いっぱいの星を見れなくなってからは、空を眺めることもなくなった。それは、豊かさを一つ失ったということだった。
星降る夜。見上げると空いっぱいに広がる星を見ていると、星のイメージが胸に染みこんでいく。星の物語にも興味がわいてくる。
宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」を書くことができたのは、星降る世界の住人だったからだろう。胸の中いっぱいに広がる星のイメージがあったからこそ、あのような作品は生まれたのだろう。そんな気がする。
豊かなイマジネーションは、触れることのできる自然の中にあってこそ生まれるものだ。
テレビできれいな風景を見ても、それは画面の中にあるきれいな絵や映像ということにしかならない。
360度周囲を見渡せる景色の中に入り、空気を吸い、身体全体で感じるのとはずいぶん違う。どんなにきれいな景色をテレビ画面で見ても、それは、疑似体験の域をでない。自分が画面の中に入っていき、景色を自由に見れるような疑似体験を味わえるような時代がくると、人間の感覚は混乱するだろうと思う。
それは、きっといいことではない。
人間を根本的に退化させてしまうような映像技術はつくるべきではない。人間には、体験を通じてしか培えない感覚というものがある。人間の認識の仕組みをもっと詳しく分析して、バーチャルな体験に置きかえてはならないものをきちんと見定める必要もあるだろう。こういう分野の研究が進められる必要もあるだろう。これは、教育の分野における研究なのかも知れない。


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Posted by 東芝 弘明