相対主義的な歴史観

雑感

日本国憲法は、歴史の試練を経て確定した憲法だと思っているのだが、当たり前のように憲法改正の議論が起こってきて、憲法を変えてもいいという風潮が蔓延してきた結果、国民の意識に何が生まれているのだろう。
この前に9条の会のお祭りがあった。

憲法第9条といっても、それがどのような条文なのか、どんな意味をもっているのかを知らない人が結構多い。「9条って何?」という意見はかなりある。
「お父さんは、また片寄った言い方する。決めつけやんといて」
これが、食卓で娘がぼくに言った言葉だった。
「憲法9条っていっても色んな見方があるやろ。一方的な話は聞きたくない」
歴史に対する相対主義的な見方は、わが家の中にも存在している。

明治憲法は、国家権力による国民を支配するための憲法であり、日本国憲法は、国民主権によって国家権力を監視し制限を加える憲法になっているというような、国民的な合意はない。第2次世界大戦が日本によるアジアに対する侵略戦争だったこと、この侵略戦争の中でアメリカとの戦争が起こったことを理解している国民もそんなに多くない。
日本では、第2次世界大戦が日本による侵略戦争であったという歴史観が、国民的な合意には至っていない。

このような事態が発生して、歴史には多様な見方があるという傾向が生まれているのは、第2次世界大戦で日本が侵略戦争をおこなったということに対して、徹底的に、執拗にこのような歴史観は「自虐史観だ」といって攻撃し、戦前の戦争はやむにやまれぬ戦争だったという皇国史観さながらの、歴史を修正するような運動がおこなわれてきたからだ。歴史教科書問題は、このような運動の頂点にある。この運動と日本国憲法の改正を求める運動は深く連動している。

歴史の問題に対する見解を述べると、それは一方的な偏った見方ではないかという。「憲法9条を守ろう」というと、そういう見方もあるけれど、色々な見方があるからという言い方が返ってくる。9条を改正して憲法を変えようという見方も極端だけれど、9条を守ろうという運動も片寄っているのではないか、という受け止め方だ。

相対主義的な歴史の見方をぼくは恐れている。
多くの若者は、日本の現代史をほとんどまともに習っていない。歴史の事実を断片的にでも習っていれば、事実にもとづいて議論を深めることができるのだけれど、ほとんど白紙に近い状態だから、日本の戦争を否定する論理と肯定する論理を聞いてもどちらに真実があるのか分からない。だからいとも簡単に、色々な見方があっていいという曖昧な見解が出てくる。

憲法を改正しようとしている改憲派の運動は、日本国憲法は制定後60年以上たったからもう古くなった、時代後れになったといい、運動してきた。その結果、どちらが正しいか分からないという人々は、憲法問題や歴史認識の問題は、個人の意識の問題、個人の考え方の問題というとらえ方をしている。歴史を修正する運動は、不確かな相対主義を生み出すのに成功しているといえるだろう。
「日本国憲法を守ろう」というと、「あなたは日本共産党なのか」というような見方も出てきている。これは、憲法を擁護するのは特異な立場だという見方を醸成していることの現れだろう。

しかし、このようなものの見方は、アジアやヨーロッパでは通用しない。日本の侵略戦争は歴史的事実、ヒットラーによるヨーロッパにおける侵略戦争は歴史的事実、これは諸国民の共通認識になっている。議論の余地はない。ファシズムによる侵略戦争に対し、人類はものすごい犠牲を払ってそれを打ち倒した。こういう認識の下で人類は戦後出発した。これは全世界の共通認識であり、この認識は国連憲章に体現されている。この共通認識は揺らがない。ヨーロッパでは、ヒットラーがおこなった戦争を擁護する論理は成り立たない。

日本は、第2次世界大戦の性格さえ特定できない特異な国になっている。日本では、戦争問題が決着していない。
なぜ決着しないのか──歴史をひもとくと戦争を遂行した勢力が戦後、復活を遂げて経済界にも政界にも入り込んで、一定の地位を占めたことが大きい。これらの世代は、もうすでに代替わりして第一線から退いたり他界したりしているが、日本の侵略戦争を擁護し、日本国憲法改正に執念を燃やしてきた勢力は、代替わりして歴史の改ざんをやり遂げようとしている。

現代史を真剣に学ぶ運動が必要になっている。21世紀を明るい展望のある世紀にするためには、戦争を知らない世代こそが、つまり60歳後半にさしかかりつつある人々以下の世代が、今こそ明治から今日に至るまでの歴史を学ぶ必要がある。現代史の問題を相対主義という傾向の中に落とし込んで、不可知論に陥らせることを許せば、日本国憲法の改正が日程に上ってくる。

歴史の事実を学んできた人々は、勇気と確信をもって日本国憲法を守ろうとしている。これらの人々は、歴史認識をさけて、相対的な見方に陥っている人々にこそ、語りかけ、学びあうことを求めるべきだと思っている。そのためには、若い世代を交えて深く学び合えるような学習運動が必要になっている。歴史的な事実を、一緒になって調べ、報告しあい、確認し合うような講座が大事だと思われる。このような学習会は、若い世代と一緒に21世紀の現代と未来をつくる学習運動になる。

事実にもとづく歴史観を育てないと、日本の現代と未来は危うい。福島原発以降、あの事故の現実が国民にまともに伝わらなくなっている。重大な危機が進行しているという指摘をおこなっている専門家と、今後も低線量被曝によって健康を害する人は出ませんという専門家の両方が存在して、事故の現実問題が、歴史認識と同じように相対化されている。歴史的な事実にもとづいて判断のできる人々を育てないと、福島原発の事態の本質は把握できない。
幸いなことに、東日本大震災以降、何が真実かを求めて反原発に立ち上がった人々が増えている。これらの人々は、深く学ぼうとしているように感じる。学べば、真実を伝えない日本の現実を変える勢力に成長すると思われる。

学びつつたたかい、たたかいつつ学ぶ。未来はこの中にある。


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雑感侵略戦争,日本国憲法,相対主義

Posted by 東芝 弘明