物事を変化の中でとらえる

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明日がいよいよ3月議会の最終日。今年も予算質疑が3日にわたるようになった。明日は、教育費の途中から質疑が始まり、災害復旧費、公債費、諸支出金、予備費と質疑がつづき一般会計の質疑が終了する。
そのあと特別会計の質疑がおこなわれる。特別会計の予算は12本。このあと委員長報告、意見書の提出と続く。明日は議会の会議を延長してもすべて終了するまでおこなわれる。
めずらしいことに今議会、質疑の途中で審議がストップして休憩にはいるということがなかった。おそらく審議ストップはないように思われる。
徹夜に近いことをしていたので、寝不足気味な日が続く。毎年、漢字の熟語が長ったらしく続く説明書きとにらめっこし、予算書の意味を把握していく。一度聞いたことのあるものでも忘れていることがたくさんあり、なかなか予算を読み取っていくのには骨が折れる。
制度が大きく変わるので、理解していたことも分からなくなり、聞く必要も出てくる。
介護保険、国民健康保険、後期高齢者医療保険、自立支援などもう一度把握し直すべき必要を痛感している。
3月議会を通じて、自治体の仕事の中にかなりの委託業務が増えていることにあらためて驚かされた。
官から民へ。この流れは自治体のノウハウを破壊させるような作用を及ぼす危険性をはらんでいる。自主的な頭脳と自主的な運営で自治体行政を担っていかないと、地域興しや町づくりはできない。この精神を失った自治体は、国や県が描く流れに押し流されてしまう。

「現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的な側面からとらえ」


カールマルクスの「資本論」第1巻第2版への後書きに書かれている有名な言葉だが、このようなものの見方、考え方が地方自治体を運営する上で極めて大切だと考えている。
自治体の政策のなかで圧倒的に多いのは、国や県に根拠をもつ制度だろう。それら一つ一つの施策は、導入時に制度の考え方とともに導入される。ここには、制度の実施という形をとりながら法律の精神や制度の精神が盛り込まれてくる。制度を理解するときにまず大切なのは、国や県が示す制度の考え方を「肯定的(に)理解」するということだろう。
マルクスがいう「現存するものの肯定的理解のうちに」という言葉は非常に深い。自分たちの意識の外に客観的に存在しているすべてのものは、まず肯定的に理解すべきだいっているのがこの言葉だ。現実に存在しているものには、すべて存在しているだけの客観的な根拠がある。存在には、存在しうる客観的な根拠があるのだから、人間はまずそのものを肯定的に理解しないと、そのものの本質も把握できない。「現存するものの肯定的理解のうちに」という言葉には、このような意味が込められている。それは、同時に物事を把握する場合、否定からはじめるなということでもある。肯定的な理解なしに批判からはじめると、その物事の全体を豊かにとらえられなくなる危険性さえ生まれるということだ。
しかし、制度を実施する自治体は、ただ単に肯定的に理解するという水準にとどまってはならない。机の上で、法律の解釈からおこなわれる制度の解説は、現実の事態を100%把握したものではない。制度を実施する現場である住民の生活は、たえず制度よりも複雑で豊かな内容をもっている。そこには、多かれ少なかれ制度との乖離が存在し、矛盾となって横たわる。
その矛盾を立体的に、多面的に把握するためには、制度の説明を肯定的に理解しながら、同時にその制度そのものを批判的にとらえることが必要になってくる。その時に必要なものの見方が、「同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的側面からとらえ」というものの見方だ。
ただし、このようなものの見方をもてといわれても、分かったような、分からないような感じになるだけだろう。「同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的側面からとらえ」というものの見方を身につけるためには、マルクスの言ったこの言葉をさらに分解して理解する必要がある。
物事をとらえる際、その物事を批判的な検討のなかにおくためには、比較検討するということが、何よりも大切になる。
比較検討するためには、2つのアプローチが大切になる。人間の認識は、変化量を把握することによって深まる。では変化量の把握とは何か。それは空間的な比較と時間的な比較から始まる。
行政の制度をとらえるときに、まず簡単にできるのは空間的な比較だろう。
例をあげてみよう。
例えば国民健康保険税。和歌山県下の国民健康保険税はどうなっているのか。
まずは空間的な比較からおこなう。
資料を集めると30自治体の一番高い国保税から一番低い国保税まで一覧表ができる。かつらぎ町は、現在県下第2位の高い水準にある。なぜかつらぎ町の国保税は高いのか。この高い国保税は、町民の所得との関係でどうなっているのか。比較の表からさまざまな問題意識がわいてくる。住民の所得格差という資料を引き寄せてくると、和歌山県下でかつらぎ町の所得水準がどのような位置にあるのか見えてくる。この所得の水準と国民健康保険税の水準をクロスさせれば、国民健康保険税がどれだけ重い負担になっているのか、アウトラインが浮き彫りになる。他市町村との比較で変化量を把握することによって自治体の相対的な位置が見えてくるということだ。
もう1つは、時間的な比較だ。
かつらぎ町の国民健康保険税は、経年的に見てどのように変化してきたか。数字をあげると煩雑になるしめんどくさいので、例示しないが、歴史的な経緯を見ると前町長の南町長時代に数年間国保税を値下げしたので、高かった国保税が値下げされ、山本町長時代の2年連続値上げによって高くなっていることが手に取るようにわかる。時間的に把握するというのは、歴史的な変遷を把握するということに等しい。歴史的な変遷を把握するということは、マルクスのいう「どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的側面からとらえ」というものの見方にピッタリ重なっていく。
空間的かつ時間的な変化量を把握することによって、国民健康保険税というものが、相対的に理解されはじめる。
空間的な比較と時間的な比較によって、国民健康保険税を相対的な視点のなかにおいて見れるようになる。分析する対象を相対的な視点のなかにおくということは、その物事を客観視して、他のものとの関係のなかに置き直すということも意味する。そうしてはじめて批判的な視点が生まれてくる。
もう1つ大事な視点がある。それは、すべての物事を変化するものとして大胆にとらえるということだ。
マルクスは、すべての物質は、「同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで」という関係のなかで把握していた。つまり、すべての物質は、生成、発展、消滅の過程、運動の流れのなかにあると把握していた(宇宙に存在している原子も歴史的に生成してきたものであり、鉄ができることによってビッグバンが起こったというように)ということだ。変化しないものはない。すべての物事には、生成、発展、消滅の過程のなかにある。この視点で物事を見ていくことは、物事を柔軟な視点でとらえ直すことを意味する。
国民健康保険制度も歴史的に生成されてきたものであり、たえず変化の中にあるということだ。これは当たり前のことだが、ともすれば、この当たり前のことが、変わらないもの、動かしがたいものとして認識されてしまう。自治体で事務をおこなっている職員は、がんじがらめに見える制度のなかで、制度を変わらないもの、工夫できないものだと思いがちだが、たえず変化の中にあることを柔軟に把握していれば、呪縛から解放されて、自分がおこなっている仕事を柔軟に把握できるようになる。
がんじがらめに見える制度であっても、比較検討していくと自治体にはさまざまな取り組みがあり、自治体間の差異が見えてくる。同じ制度のもとでも多様な工夫があるのは、法律や制度がすべての物事を規定していないところからくる。
空間的および時間的な変化量の把握からはじめて、運動・変化の中でとらえるようにすれば、限界はあるにしても新しい取り組みはたくさんはじめられる。このような認識方法は、科学的なものの見方考え方ということであり、多くの科学者が当たり前の研究方法として活用しているものだ。
物質が運動と変化の中にあるという考え方は、今日、極めて豊かな具体的事実によって日々、具体的に証明され続けている。私たちが、それらの内容を具体的に知ることは、頭を柔軟にする上で欠かせない。
すべては運動の中にあり、生成・発展・消滅の過程のなかにある。この考え方は、私たちの住むこの社会にも当てはまる。最後にこのことを書いてみよう。
資本主義から社会主義へという方向は、日本の資本主義をソ連型や中国型の社会主義へという話ではまったくない。マルクスは、資本主義の運動法則を科学的に明らかにすることによって、資本主義が人類が到達した最終的な社会体制でないことを明らかにし、人類は資本主義のもつ矛盾を乗り越えて新しい社会体制に移行することを明らかにした。しかし、だからといってマルクスは、社会主義の設計図はまったく書かなかった。そういう具体的な設計図は、空想の産物であり社会主義ではないというのが、マルクスの態度だった。
資本主義によって豊かになった生産力を人類はコントロールできなくなり、豊かさゆえの貧困が生まれ、豊かさゆえに社会の矛盾が増大する。豊かになった生産力を人類が自分のものにできる社会としての社会主義。マルクスの展望はここにあった。
日本の歴史をみてもこのことは、実感できる。
第2次世界大戦当時、日本国民には主権が存在しなかった。戦争が敗北をもって終結したことによって、絶対主義的な天皇制が否定され、国民主権が実現し、基本的人権が永久の権利として宣言されるに至った。この変化は極めて大きいものだった。
21世紀。いま、戦後日本の政治を動かしてきた自民党政治が歴史的な曲がり角に立たされている。激動の時代が始まりつつある。資本主義の先祖返りという側面を持っている新自由主義によって、資本主義の矛盾が深まり、その矛盾が自民党の屋台骨を揺るがしはじめている。
時代は変化の中にある。
資本主義を変わらないもの、変化しないものとしてとらえる考え方から自由になるために、マルクスは資本主義のメカニズムを徹底的に明らかにしようとした。資本論は未完の大作となった。
新自由主義のもとで、マルクスの分析が100年以上たった今、再評価されつつある。
「現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的な側面からとらえ」るものの見方、考え方に導かれて研究したマルクスの姿勢は、時代を超えても輝きを失わない。


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Posted by 東芝 弘明