自然科学と社会科学

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自然科学と社会科学は、扱う対象がちがうので研究方法も大きく違ってくるということだ。
自然科学のなかでも物理学は、物質の性質をさまざまな角度から研究しその存在の仕方や運動の仕方を明らかにし法則を発見する。ここには、論理にもとづく仮説、観察と実験などが相互に連関しながら繰り返される。
観察からえた新しい現象や説明がつかない現象に対し、新しい理論を構築して仮説を立て、その仮説にもとづいて証明を試みる。仮説が正しければ、いつか実験や観察を通じて証明されることになる。
しかし、真理はなかなかその全貌を人類の前に表さない。仮説は、多くの場合数多くの証明をもって確かなものとされてきたが、科学技術の進展等のよって新たな観察的な知見が確認されると不十分さが露呈して新しい理論の構築が必要になってくる。
科学的社会主義は、このような問題に対し、哲学的なアプローチをもっている。
科学的な真理は、相対的真理であることが多い。その相対的な真理は、絶対的な真理の粒を含んでおり、人間にとって絶対的真理にたどりつくという点で認識の進化を妨げるような壁は存在しない。しかし、人間は一度に絶対的真理を把握することはできない。人間は一度にすべての物事を認識できないし、人類が集団で到達した認識にも歴史的な制約がある。絶対的真理への到達の道は、人類の不断の探求によって明らかにされるものである。物質世界は、たえず人間の認識以上に豊かであり、あたらしい真理の獲得は、新しい未解明な問題を生み出だす。
自然科学の歴史は、このような人間の認識の歴史でもあった。
素粒子の研究に代表されるような物理学が扱うのは、電子であったり原子であったりする。この極めて単純な物質の世界でさえすごく豊かな内容をもっている。人類の科学的な到達点は、この原子や素粒子の世界の法則を明らかにするという点で、まだ大きな山を登りはじめたに過ぎないという地点に立っている。
科学は、何でも割り切ってしまうという見方や、科学では証明できないことがたくさんあるという言い方がよくおこなわれ、一足飛びに非合理的で非科学的な出来事を受け入れたりする傾向が強い。しかし、科学は、現実を割り切るために存在しているのではなく、現実が複雑なランダムにしか見えないような現象に分け入って、そのランダムさを貫いている法則を事実に添って明らかにする努力をしている。最も柔軟でしなやかなものの見方、考え方がなければ、物質の運動を把握することはできない。
一般常識では、時間は変化しないもの、空間は変化することのないハコのようなものだととらえられている。それは、それで正しい。しかし素粒子のレベルの運動を観察していくと、時間が物質の運動の仕方によって変化すること、空間は物質の存在の仕方によって変化することを認めざるをえない。
科学的な知見というものは、たえず人間の硬い頭を柔軟にする作用を生み出している。それは、別の角度からいえば、物質の運動の豊かさを物語るものである。
化学になると、扱う物質は、高分子化合物などになりもっと複雑な法則が問題になる。そこでは、物質と物質の相互作用が複雑に絡み合う。
生物学になるとあつかう物質は、生命活動をおこなっている人間や動物ということになる。研究対象は、たえず同化と異化、生成、発展、消滅の過程にある生命を扱うようになる。人間の精神という問題も当然研究の対象になる。
物質は単純なものから複雑なものへと発展してきた。水素とヘリウムから成り立っていた物質は、次第により大きな物質を生み出し、鉄をつくることによって爆発を起こした。生命活動をおこなっている生物は、物質の発展の極めて高度の発達した姿であり、その運動の法則は極めて複雑だということである。生物学を取り扱っている分野では、要素還元主義などは成り立たない。ゲノムが解読されたからといって、生物の法則すべてが明らかになったのではない。デオキシリボ核酸(DNA)を解明し人間の要素にあたる問題を解明したら、こんどは、細胞レベル、組織レベル、臓器の働き、臓器の結合、人間の総体へとより複雑なものを動かしている法則を明らかにしていく必要がある。
脳の各部署の働きや機能、神経細胞や海馬の役割など脳科学は、かなり豊かに脳の働きを明らかにできるところまで進んできた。しかし、人間の心や精神が脳のどのような働きによって生み出されてくるのかということは、ほとんど分かっていないのだという。要素の問題が解明されたからといって、物質のすべての運動法則が明らかにならないのは自明のことだということだ。
物理学と化学と生物学、このようなジャンル分けは人間がおこなったものであり、本来はそんな境界などは存在しない。科学が発展してくるとこの境界はますますあいまいになり、結合されることも重要になる。
しかし、このような分類は人間の認識を進化させる上でも必要なことだった。比較し分類し検討し傾向を分析する。人間の認識はこういう作業から始まったので、自然科学が枝葉に分かれそれぞれ発展の道をたどってきたということだ。
素粒子の世界が星の誕生や運動と深く関わっているように科学が発達してくると細分化された研究分野が、こんどはまた複雑に連携し結合しはじめる。分析は総合とやはり不可分一体だということだろう。
社会科学は、自然科学よりも歴史が浅い。それには理由がある。とぼくは思う。(ここの部分は、勝手なぼくの考察だ)
人間の社会にはさまざまな人間の意思が働いており、自然科学が扱う分野よりも複雑な動きをしている。これを解明するには、人間の社会を客観的に見ることのできる総合的なものの見方や考え方を必要とした。そのためには、人間と社会そのものの発展が必要だった。社会が成立し、社会の構成員に自我が芽生え、民主主義的な要素が発展してこないと社会を科学するという土台が生まれない。社会科学が成立するためには、数学を含む自然科学の発展が必要だった。自然科学と深く結びついて生成してきた哲学が社会科学の基礎になった(断定するような自信は全くないんですが‥‥)。
生物である人間が、次第に生産力を高めることによって、集団を大きくし長い歳月をかけて都市を形成していった。小さな人間の集団から1200万人が住む東京のような都市へ。このような大都市がなぜ成り立っているかを考えると経済力ということを無視できない。
大都市が成り立つためには、大都市を支えるだけの経済的な力がいるということだ。都市住民のなかには、サービスをおこなうことによって、生計を営むものも生まれてくる。このような人間の存在は、豊かな生産力という土壌なしには成り立たない。
人間の歴史は、ランダムに変化自在に進んできたのではなく、進歩の方向へ人間の諸権利が認められ豊かに発展する方向へと進んできた。ぼくはそう感じている。
20世紀に第1次世界大戦と第2次世界大戦という2つの大きな大戦がおこなわれ、膨大な犠牲がはらわれたが、この2つの戦争を通じて国連憲章が生まれ、世界人権宣言が生まれ、日本において恒久平和と基本的人権をうたう憲法が生まれた。
人類は、経済的な利益のために自由自在に戦争をおこなうことを禁止した。アメリカのイラク戦争のときに、アメリカは国連の承認を得てイラク戦争を始めようとしたが、国連の承認なしの戦争になり、その結果ブレアが失脚し、ブッシュ大統領の支持も失われつつあるという結果を生み出した。
人類は、互いの人権を認める方向で動いている。平和・共存の流れは大河のようになりつつある。国際紛争はなくなっていないが、国際政治には道理が通り始めている。
そういえるのではないか。
奴隷制の時代から封建制の時代へ、そして資本主義へ。世界の流れのなかでこのような方向がどうして生まれたのか。ここには自然科学と同じような運動の法則が存在するのではないか。
自然科学と同じように人間の社会にも発展の法則がある。それは人間のバラバラな意思を貫いて働く法則である。
社会科学を科学の域に高めたのは、マルクスとエンゲルスだろう。
今日は少しこのことを書いてみたい。
生物の運動でさえ法則を明らかにするのは難しいので、個々に意思を持った人間が自由に動く人間社会に科学のメスを入れ、社会の中に流れている運動法則を明らかにするのは、かなり骨の折れる仕事になる。研究対象が、人間の社会ということになると顕微鏡による観察やスーパーカミオカンデのようなどでかい実験装置でさえ役に立たない。実験ができないのが社会科学なので、研究は統計や調査などの手法になる。
実験で証明できないから、社会科学は科学ではないなどというナンセンスなことは言わない方がいいだろう。研究の対象によっては、自然科学でさえ実験が不可能な分野がある。実験できない分野の方が多いというのが現実ではなかろうか。
社会科学を語る前に「資本論」のことにふれてみたい。
100数十年前の著作である「資本論」が、資本主義擁護の経済学者から無視できない存在として、たえず「マルクスは古くなった」、「資本論は古くなった」と批判されるのは、見ていて面白い。
「資本論」は古くなったという批判より前に、ものすごい古い書物だということだ。100数十年前の書物が、現在社会の謎を解き明かす力をもっているということ自体、驚異的だからだ。しかし、間違いなしに「資本論」は現在社会のあり方を語る上で、無視できない存在になっている。
新自由主義が、全世界を覆い害悪を振りまいていったときに、資本主義のチャンピオンであったアメリカから「マルクスは生きている」という声が響いてきた。
「資本論」は予言の書なのかと思うぐらい的確に資本主義の諸問題を解き明かしている。
マルクスは、ヘーゲル左派から出発してエンゲルスとともにヘーゲルを批判し、哲学的には弁証法と唯物論を結合させ、科学的社会主義という立場を確立していった。そして、社会には合法則的な発展の法則があるという史的唯物論を導きの糸にして、経済学の研究に没頭していった。
人間社会は、さまざまな意思がぶつかり合い、相殺しあっている。しかし、すべての人間は、さまざまな活動をおこなう前に、飲み、食い、着る、住むということをおこなわなければならない。
宗教や文化活動、精神活動や哲学、政治等々が社会を根本的に動かしているのではなく、社会の土台をなしているのは、経済であり、人間の経済活動が社会の動きを根本から規定している。だからこそ資本主義経済の法則を明らかにするために経済学の研究をおこなう必要がある。──これがマルクスの認識だった。
マルクスは、経済学の研究を商品とは何かというところから始めた。資本主義社会の中で商品問題というのは、人間でいえば細胞のような位置に当たるものだ。商品はなぜ商品として成り立ってきたのか。商品は人間の歴史の中で歴史的に生成され確立してきたものであり、貨幣ももともとは商品だった。金がなぜ貨幣の位置を占めるようになったのか、こういう問題もマルクスは明らかにした。
商品は、労働の生産物であり、使用価値と価値という側面を持っていること、使用価値は人間の具体的有用労働と結びつき、価値は人間の労働の抽象的人間労働と結びついている。抽象的人間労働は、その商品を作るために必要な社会的な労働時間によってはかられる。
マルクスは、商品の中に2つの側面があり、その商品は労働の2つの側面と結びついていることを明らかにした。これは、アダム・スミスが接近しつつあったが解明できなかった労働価値説を証明するものだった。
資本主義の発展によって、労働の生産物でないものが商品化してくることもマルクスは明らかにしている。
商品といったときに、自分たちの目の前にはさまざまな商品が目に浮かんでくる。そのときに商品は労働の生産物だというところに本質があること、商品には異なる二つの側面があること、それは労働の2つの側面と結合していること、こういうことを膨大な分析の中から明らかにしたので、「資本論」は、100数十年たった今日でも、資本主義の生きた解明をおこなっている現役の本になっているということだ。
エンゲルスは、資本主義の生産の秘密の暴露をおこなったことによって社会主義が科学になったと書いた。
資本主義の生産がなぜ価値を増大させるのか。資本の蓄積とはなにか。というときにマルクスは剰余価値という言葉をあみだして、商品の生産過程で剰余価値が生まれることを明らかにした。
商品の価値と剰余価値とは不可分に絡んでいる。しかし、かなり抽象的な難しいことをBlogに延々と書いても、誰も読まないのでこの辺で筆を止める。
ここからが資本主義の秘密の暴露の話になってくるが、書き始めるとものすごく長くなりそうだ。Blogには紙幅というものはないが、原稿用紙10枚を超えて書くと、人間の緊張感の糸も切れる。思いつくまま書いている文章を読まされる方は、十分整理されていない思考の流れにつき合うことになるので、しんどいことこの上ないだろう。
もしここまで読んでくれた方がいるとすれば、感謝したい。ほんとに(どうも自分の思いこみで書いた部分と、きちんと書いた部分とが混在するような文章になってしまった。批判に耐えられない部分もあるだろうなあ)。

ここからは、本日のまとめ。
自然科学が、物事を解明するときに、複雑に絡んだ現象に分け入って、シンプルな条件を設定し因果関係を突き止め、次第に複雑な要因を加味していって複雑な中で法則がどのように貫かれているかを明らかにするように、マルクスは、資本主義を解剖し一歩一歩資本主義の複雑な運動形態を明らかにした。
「資本論」は未完のまま終わった。マルクスが生きている時代に本になったのは第1巻のみ。マルクスの死後10年ほどかかってエンゲルスは、「資本論」の膨大な草稿から第2巻と第3巻を編集して本にした。マルクスは、資本主義の豊かな現実を単純なものから複雑なものへと、一歩一歩階段を登るように条件を付け加えながら明らかにしていった。
これが100数十年たっても生命力を失わない力になった。巨視的な物質の世界でニュートン力学が生命力を失わないように、マルクスの「資本論」は資本主義の法則を明らかにした書物として、全世界に普及している。
「1000年の歴史の中で最も偉大な人物は?」
ヨーロッパのいくつかの国で、このアンケートの問いに対する答えは、「1位はマルクス」というものだった。
「21世紀、世界のどこかで第2のマルクスが歩いている」
アメリカの雑誌に掲載された言葉だ。この言葉の意味を知るためにマルクスに出会ってみて。
そう言いたい。


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Posted by 東芝 弘明