北田通さんの告別式

雑感

51年間町議会議員であった北田通さんが亡くなった。享年92歳だった。1920年(大正9年)2月生まれだった北田さんは、31歳の年に旧妙寺町の町議会議員に初当選し、2002年(平成14年)まで町議会議員の職にあった。兵役も長かったようだ。戦争が終わった1945年の時は25歳だったようだ。
昨日の通夜と今日の告別式に参列させていただいた。ぼくが議員になった年は1990年だったので、3期12年間一緒に議員をさせていただいた。ちょうど40歳年が離れていた。
ぼくが議員になったときは70歳だったことになる。議員としてはじめて向きあっていた町長である溝端康雄さんと北田さんは同い年だった。どちらも同じ妙寺に住み、どちらも印刷業を営むライバルだった。この2人は、妙寺でお互いに意識しあい、競い合っていたようだ。

北田さんの議員時代は、1951年に始まっている。日本がサンフランシスコ平和条約を結んだ年だ。戦争が終わり、講和条約が結ばれて新しい出発をしたときに、北田さんの議員としての活動も始まっている。1958年(昭和33年)にかつらぎ町が市町村合併によって誕生したときも議員だった。その後おこなわれた笠田中学校の統廃合、1960年代の高度経済成長、70年の万国博覧会、1971年の黒潮国体、70年代の田中内閣の時代。83年にライバルだった溝端さんが町長になった時代は、まさに中曽根内閣が誕生し、戦後政治の総決算を掲げる時代だった。その中で起こったバブル経済、92年のバブル崩壊とその後の失われた10年、北田さんが活動された時代は、日本の戦後の隆盛期と低成長時代という2つの顔をもった時代にあたる。

北田さんは、自民党公認の町議会議員だった時代もある。自民党の議員として党派性をもっていた。日本共産党とは、政治的な敵対関係にあった。議会というところは面白い。40歳も年が離れている議員、議員のキャリアも全く違う議員が、対等平等に扱われて、意見を戦わせることができる。30歳のぼくが議会に出て、溝端町長と対峙し論戦する姿を、北田さんは議会の一番後ろの席で座って聞いてくれていた。日本共産党が反対討論を終わり、議長が賛成討論を促しても議場が静かになって動かないときが何度もあった。こういう場面になると、北田さんは大きな声で、「議長」と言って手を上げ、賛成討論をおこなった。その場しのぎの賛成討論には、「日本共産党には負けられない」という感じの党派性がにじみ出ていた。

予算質疑で、ぼくと宮井議員が、入れ代わり立ち代わり質疑をおこなっていると、「議事進行」と言って、発言したことが2度か3度かあった。
「和歌山県下の議会で、こんなに根掘り葉掘り予算質疑をおこなっている議会はない。議員はもっと大所高所に立って質疑をおこなうべきだ。こんなに時間をかけて、一般質問のような質疑をすべきではない」
こういう内容の発言だった。このような議事進行がおこなわれるときは、北田さん自身が質疑をおこないたいときだった。
議事が再開されると、北田さんは、大きな声で「議長」と言って質疑に立った。
「斎場に登る道が真っ暗で具合が悪い。外灯をつけてですね、明るくしていただきたい」
こういう趣旨の話を長々とおこなって、なかなか質疑が終わらなかった。

一般質問のような質疑をすべきではないと言いつつ、北田さんは堂々と自分で一般質問のような質疑をおこなった。休憩になると、この質疑をめぐって笑いが絶えなかった。
反対の論陣をはっていたのに、形勢が不利になってくると率先して賛成討論をおこなうということも何度かあった。
北田さんの挨拶は独特で北田節のような味わいがあった。いつも春の季節に心を砕いたり、秋の彩り、移り変わりにこことを砕いたりと風流を大切にする人だった。

議員として最初に対峙した溝端町長は、ワンマン政治への怒りが次第に高まり住民の支持を失いはじめ、議会における対立も大きくなっていった。あるときに、町道の建設をめぐって、議案を否決するかどうかという綱引きが熾烈になったことがある。
北田さんは、このときに「議会が議案を否決すべいいではない」という論陣をはって保守の議員を説得した。このときは敵対していたはずの溝端町長を全力で擁護した。議案は賛成多数で可決した。何があっても町を守るという自民党としての党派性が発揮されたように感じた。

個人的には、ぼくを大事にしてくれた。年齢が40歳も離れているのでおじいちゃんと孫のような形だった。12年間の付き合いの中で、日本共産党というものを北田さんなりに理解していただいたとも思っている。
「日本共産党は何でも反対」と言う人には、かつらぎ町の日本共産党は違うという話を何度もしてくれていた。彼らにもいい所があるという話し方だった。

51年の議員在職が終わって、いよいよ引退するときに、議会は、北田さんの送別会をおこなった。議員全員で記念品をプレゼントするということになり、その当時爆発的な普及になりつつあったデジタルカメラをプレゼントすることになった。その時のカメラは、ぼくが選んだものだった。
引退してから何度か電話をいただいた。「応援するからがんばれよ」と言ってくれたこともあった。市町村合併の動きを聞いてきたこともあった。

社交的な人だった。まつりが好きな人でもあった。愉快な話が好きな人だった。肩書きも大好きだった。名刺の裏にまで肩書きがびっしりと書き込まれていた。かつらぎの夏まつりの実行委員長を長くつとめられ、地域の寄附集めの先頭にも立っていた。
昨年の夏、暑い最中、この寄附集めで役場の事務局職員と動いているときに玄関前でばったり会ったことがある。そのときは、役場の横のうどん屋さんでお昼ご飯をごちそうになった。一人前の定食を全部食べたのが印象的だった。

お通夜と葬儀にはたくさんの方々が参列していた。かつらぎ町の歴史を議員の目で見てきた人が、また一人亡くなった。溝端町長と北田通さんが亡くなったことによって、かつらぎ町の歴史に一つの区切りがついたようにも感じる。葬儀の会場の一番後ろのコーナーには、北田さんの写真が飾られていた。若い頃の写真には、やんちゃな親分のような雰囲気があった。
自民党の政治家としての狡猾さ、ずるさ、小さなこすさもあった。役職に対する執念、人間としての人情、豊かな愛情、楽天的な明るさ、笑いの絶えない人柄、北田さんにはこういうものが全部入っていた。まわりの人々は、このあからさなま人柄に、ときには怒り、喧嘩もし、同時に愛してもいたように思う。色々な物が入り混じっている大きな人物だった。

昭和の戦後の成長期は、明るい未来を内包しつつ爆発的に多方面に広がる力をもっていた。矛盾の多さは半端ではなかったけれど、その時代を駆け上った北田通さんは、昭和の良い面と悪い面を全部兼ね備えたような人だった。ぼくたちが空気のように吸って生きていた時代の懐かしい匂いがした。北田さんと話をするのは楽しかった。笑顔のよく似合う人だった。

北田さん。
安らかにお眠りください。


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雑感

Posted by 東芝 弘明