味覚の変遷、記憶に残る食事。

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夜は、わが家で焼き肉をした。
最近、そんなにお肉が食べられない。50歳近くなると、どうしても脂っこいものを敬遠しがちになっているのだろうか。
味覚というのは、不思議なもので、小さい頃食べられなかったものが食べられるようになったり、何かのきっかけで、それまで食べることができていたものが食べられなくなったりする。
お寿司は、好きな食べ物だが、友人の家の法事の席で、大量にハマチばかり食べさせられたことがあった。ハマチもわりに脂っこい。最後には胸が悪くなってしまった。それ以来ハマチのお寿司がダメになった。
中学生の時に、親戚の家で焼き肉のレバーを食べ過ぎて、この時はトイレでもどしてしまった。
それ以来、焼き肉のレバーが苦手になった。
生ぎもは、大好きなのだが、焼くととたんに食べたくなくなる。
生牡蠣は、2度ウイルスにあたって3日ずつ寝込んだので、絶対に口にしたくない食材になった。
生きのいい牡蠣でもウイルスをもっていることがある。まわりの人がこのウイルスに当たらなかったとしてもぼくだけは、食中毒症状が出るようだ。抗原抗体反応というものだろうか。
食べ物にも心的外傷後ストレス障害(PTSD)はあるように思う。
小さい頃、むりに嫌いな野菜などを食べさせるのは、あんまりよくないのではと思っている。
食事を無理強いすると、拒絶反応が強くなって、食わず嫌いになるようになるのではないだろうか。これもPTSD体験になる場合もあるだろう。
嫌いな野菜があれば、まずは気がつかないような料理の工夫をして、今日のハンバーグにはニンジンがたくさん入っていたんだよとかすれば、食べれたことが不思議でもあり、味覚が広がるのではないだろうか。
小さい子どもたちが、成長のプロセスのなかで、次第に味覚を広げられるようにするには、食事が楽しいものであることが必要なのかも知れない。
食事の文化的要素とでもいえばいいだろうか。
ぼくは、小学校2年生か3年生の時に、自分でご飯を炊いて味付け海苔でそのご飯を食べたことがある。それが初めて自分でおこなった料理だった。
高校生の時は、兄弟3人の食事をぼくが作っていた。茶碗蒸しの時だけ、5歳年上の兄貴が蒸し器でつくってくれた。
夕ご飯の食事だけが、唯一のまともな食事だった時期もあった。
欠食児童という言葉がある。
育ち盛りの時に、1日1食の食事だけだと、朝目が覚めてベッドで体を起こすと天井がくるくる回った。
授業開始の時の、起立、礼、着席で床が傾いた。
体育の時間、走ったり急に振り向いたりすると空と地面がゆらゆら揺れた。
あの頃、3度食事を食べていれば、もう少し背が伸びていたかも知れない。お昼ご飯を食べないぼくを見て、兄貴の恋人がぼくのお弁当を作ってくれた時期があった。このおかげで貧血はかなり改善した。健康が著しく疎外されるところまで、食事をとらなかったということにはならなかったので、背が伸びなかった程度でおさまったのかも知れない。
食事がまともにとれたのは、20歳を超えてからかも知れない。しかし、それは365日、外食という日々だった。結婚が遅かったので、34歳までほとんど外食ばかりしていた。給料のほとんどを食事に費やしていたのだと思う。牛乳を撮っていた時期もあったが、冷蔵庫のなかで腐って分離している牛乳瓶がたくさんあった。
その頃は、1年に1度くらいは風邪で寝込んでいた。
結婚して、食生活が安定した。そして5キロも太ってしまった。
「お父さんの健康状態がよくなったのは、私のおかげや」
妻は時々、ぼくの独身時代を思い出して、こんなセリフを口にする。
感動した食事というのは、今までで2回。1回目は、神戸のホテルオークラのディナー。結婚して小旅行で2日目に宿泊したホテルの夕食だった。あのときのサラダのドレッシングには感動した。
その時、食べるのに夢中になる食事というものをはじめて知った。
もう一つは、北九州市小倉に行き稚加榮(ちかえ)というお店で5000円の夕食を食べたときだ。
さまざまな日本料理を食べたことがあったけれど、料理に感動して食べるのがもったいないという気持ちになったことは数少ない。
お酒を飲んで酔っぱらうのももったいないほどの料理だと思った。
料理で人を感動させるのはものすごく難しいらしい。1日3度、日常の生活のなかで繰り返される料理。それなりにおいしいことは、たくさんあるが、記憶にいつまでも残る食事というのは、めったにない。
食材だけでは足りない。食材とともに料理人の味付けが人の心を動かす。
そんな感じがする。


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Posted by 東芝 弘明