学校の図書室に司書の配置を

雑感

この頃、毎日膨大なスパムコメントが溜まるようになってきた。今日溜まっていたスパムは234もあった。一括削除の機能があるので、ワンタッチで削除はできるが、ぼくのBlogにへんてこなコメントが大量に寄せられるのには閉口する。

今日は午後から一般質問の打ち合わせがあった。ぼくが質問するのは住宅リフォーム助成と小中学校への図書室への司書職員の配置だ。子どもに読書の習慣と資料を調べて真実に接近する習慣を身につけてもらうことが、子どもの成長にとって、極めて重要なことだと思っている。
司書はしかし、1日にしてならず。図書館司書は、その図書館にある本や資料について把握していて、資料を求める人に対して資料を提供するという橋渡し的な役割を担う仕事だ。どのような本が図書館にあるかを把握するのは、なかなか骨の折れる仕事になる。容易に検索するためには、パソコンの力が大きな役割を果たすが、その本や資料が図書館のどこにあるのかは、司書が日頃から本のありかを的確に把握しておくことが大事になる。
図書館には全国共通の分類方法がある。しかし、本を書く人は、その分類法法にもとづいて本を書いているのではないので、どうしてもカメレオン的な本がたくさん存在する。専門を持った大学教授が映画評論を書いていたりするから、なかなか分類は難しい。エッセイということになると、半ば論文的なエッセイもあれば、小説風なもの、日記的なものと幅が広い。文芸評論的なエッセイもあれば、映画評論的なもの、紀行的なものもある。椎名誠になると冒険風エッセイということになる。

そういう本をどう分類していくのかというのは、かなり難しい。したがって、6万冊、10万冊の本の中からそれを引っ張り出すためには、骨が折れる場合がある。作者名と本の題名が分かっている場合は、探すのは簡単だが、「作家名がよく分からないが、こんな内容の本はありませんか」という問いなどに答えるのは難しい。
しかし、図書館は、そういう時のために存在すると言っても過言ではない。
「宮沢賢治という作家のことが知りたい」
こういう注文があれば、司書は、その図書館にある宮沢賢治のあらゆる資料にアクセスさせる努力をするということになる。

かつらぎ町の図書館にもお年寄りがやって来て、「この魚何という魚か教えてくれ」「この花は何という花か」と言って実物をもってくる人がいるらしい。なかなか面白い。そういう時に、図書館の司書は汗をかくのだ。

人類の第2の脳、司書という本や資料に対するコンシェルジュが図書館にはいて、この第2の脳の役割を図書館が発揮できるように橋渡しをしている。情報伝達のためのシナプスや情報を引っ張り出してくる海馬のような役割を担っているのが、司書という存在だと思う。本に埋もれて、本や資料の案内人である司書をぜひ、子どもたちの身近な存在である学校図書に。
なぜ、どうしてという疑問をもつことの天才である子どもたち。子どもは不思議がる天才だが、不思議がったことを簡単に忘れる天才でもある。子どもが疑問に思ったとき、側にいてその疑問の芽を摘まないで伸ばしてあげると、子どもはものすごく成長する。
側にいて、子どもの疑問に答えて、いっしょに探究してくれる存在として、司書という存在の意味は大きい。
司書は1日にして成らないが、司書を配置して図書室を支えるようになれば、子どもの学びがどれだけ伸びるのか。
このことを創造してみると、何だかワクワクしてくる。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明