新自由主義とはなにか?

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朝から総務文教常任委員会があった。
教育委員会が、学校の改築問題で見通しを明らかにした。
このことをめぐって、さまざまな角度から議論がおこなわれた。
午後からも1時間程度委員会がおこなわれ、2時過ぎに会議が終わった。
役場からのかえり、福祉の窓口に児童手当の現況届を提出した。
ぼくが書類を提出する前に、ベビーカーを押した若いお母さんが2人、現況届を提出していた。
蒸し暑い日だった。夕方から集金に行き、集金先で教育についての話になった。
ぼくは本気で、高校入試の完全廃止、入学願書の提出による希望者全員の入学という制度(定員オーバーのときには抽選)を実現すればいいと思っている。
この施策を実現していくとき、同時に教育行政は、どの高校でも内容豊かな教育を実現する努力をおこない、学校間の格差を是正する方向に大きくかじを切り、突出した進学の名門校をなくす方向を探求する必要がある。
そのために、大学入試は資格試験にすべきだと思っている。高校における評価が大学入試に決定的な役割を果たし、一定の水準の学力があれば、学びたい大学を自分で選んで選択できるように変えればいい。
10代の時間は、よく遊びよく学び、よく体を動かす時期に変更して、学んでいくにつれ人間的な成長を実感し、個人の夢が、次第に現実の具体的な将来展望に発展したり、転換したりするようなものに変わるよう教育の設計を変える必要があると思っている。
子どもの頃から競争のただ中に投げ入れられ、中学生になると、生活に追われ睡眠時間が削られていくような生活から解放するようにできたらいいのにと思っている。
おかしな教育政策は、国民の手で変えればいい。人間が作った制度なのだから、変えれないことはない。
教育に競争は入らない。競争は、人間の成長をゆがめ、人間の発展を妨げ、人間の心を狭めてしまう。
学ぶことへの喜びが十分に組織され、一人一人の人間が大切にされる教育を実現してほしい。
高校入試の全廃は、実現不可能な政策ではないと思っている。先進国では、当たり前になりつつある制度でもある。
競争が組織しているさまざまなゆがみを議論すべき時代に来ている。
集金先の話の中では、あらためてこういうことを考えさせられた。
東京の秋葉原の無差別連続殺傷事件の犯人は、勉強をかなりがんばってきた人物であり、そのなかで挫折を味わい、本人が望まないような派遣労働という働き方の中で人間に対する怒りを高めていったようだ。
誰でもいい、殺したかったというような言い分は、ムチャクチャだ。
社会に対する怒りをなぜ、まったく関係のない人間に向けるのか。
幸せそうに見える人間すべてがにくい、だから殺してもいいというのは、自分たちが住んでいる社会という枠組みは変えられないというがんじがらめの考え方が、意識の根底にあるように思う。
ネットの世界には、人間と社会に対する怨念のようなものが渦巻いている。閉塞感が、人間と社会への怒りとなってはき出されている。
社会的な背景がどうであれ、大量無差別殺人は、いかなる理由をもっても許されない。社会が悪いというような単純なものではない。
しかし、若者の前にある絶望。この問題を考えることが大切になっているのではないだろうか。
ゆがんだ人間の制度は、人間の力で変えることができる。そのための努力は、地道なものだが、人間同士がつながりあい、力をあわせることによって、希望ある道は開かれる。
教育のなかで、社会は変わること、主権は国民にあること、非合理や不合理は、粘り強い努力によって変えることができることを、子どもたちと確認していくことが大事だと思う。世の中への適合を教えるだけではなく、社会の一員として、社会をよりよいものに変える、それが人間の特質なんだということを学びあうことが大事なのではないだろうか。
秋葉原の事件には、人間の絶望を感じる。トラックにはね飛ばされた人を助けようとしていた人を犯人はダガーナイフで刺し、重傷を負わせている。ここには、人間の善意に対する怒りがあるように感じる。
まじめに、真剣に生きている人に対する怒り、これを感じる。
学校という社会制度の中には、成績で人間のごく一部を評価し、それを人間性の否定にまで高めさせるような傾向がある。成績がダメになると人間のすべてが否定されたかのような感じが日本の教育にはある。
人間の可能性を極めて狭いものに押し込み、物差しで測る教育のあり方を考え直すときに来ている。
自己実現や自分探しが問題になっている。しかし、本来は、自己実現と自分探しは、学校教育の中で子どもたちが成長していけば、かなり自然に身についてくるものではないだろうか。
自己実現や自分探しが、学校の教育と乖離していく今の教育のあり方は、人間を育てる教育というものは、そもそも何なのか考え直す必要に迫られている。
「勝ち組の人間すべてが敵」──今回の事件の犯人は、このような認識をもっていたと報じられている。人間と社会に対する絶望と恨み、このような精神を蓄積させてきたものはいったい何なのか、考えさせられる事件だった。
この事件を考えるときに、頭によぎってくるのは新自由主義=市場原理主義にもとづく構造改革の問題だ。格差と貧困があるのは当たり前、勝ち組になれないのは自己責任だという非常にニヒルな哲学に支えられた新自由主義は、社会保障を破壊し、労働現場を蟹工船のような悲惨なものに変えている。
生活破壊は、健康破壊からはじまり、社会保障負担を支払えないようになり、家庭全体を破壊する。ホームレス問題は、対岸の火事ではない。
このような経済と社会の変革を実現したのが、小泉さんの構造改革だった。
自民党政治を変えなければ、人間を大切にする時代への転換は図れない。
これだけははっきりしている。自民党政治は、人間が不幸になっていくシステムをつくることに不感症になった。
社会に対する不満は、強力な国家をつくり、個人に自由を統制することによって抑え込む。そういう方向に動いている。憲法改正の一つのねらいは、戦前のような基本的人権に制限をかける強権国家づくりにある。
新自由主義の路線にしがみつくかぎり、自民党には政権の座を降りていただけなければならない。
それが、日本国民の幸福の条件をつくる道になる。
新自由主義=この主義の敵は、社会保障と労働法制、スローガンは小さな政府と規制緩和。官から民へ。
新自由主義=弱肉強食が正義だと信じている経済システム。
新自由主義=人間を絶対的に消費することによって成り立つ経済システム。
新自由主義=むき出しの経済至上主義のシステム。
新自由主義=資本の要求を絶対視した政治経済システム。
新自由主義=経済政策と社会体制の変革によって、庶民から夢と希望をうばうシステム。
新自由主義=ただ単に中止するだけでも、人間が少しハッピーになれるシステム。
新自由主義=自民党と民主党をトリコにして、日本を破壊しつつあるシステム。
新自由主義=都市と農村の格差を拡大し、農村の破壊によってやがては都市の機能を破壊するシステム。
新自由主義=資本主義の矛盾を復活させ、拡大させるシステム。
新自由主義=アメリカが南米で実験し、アメリカとイギリスに導入し、全世界に伝染病のように広がったシステム。
新自由主義=マルクスの言葉を復活させたシステム。100数十年の時間を経て「資本論」の正しさを証明してみせた経済的社会的システム。
新自由主義=首尾一貫しないご都合主義的な経済理論。戦争とファシズムへのラブコール。力による国民支配と不可分一体の経済システム。
新自由主義=資本主義最後の論理。社会発展の萌芽を準備する絶望的だが絶望の対極にある希望を、抵抗として準備するシステム。
新自由主義に終止符を打つのは国民の運動と世論。


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Posted by 東芝 弘明