終戦記念日に寄せて

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8月15日、終戦記念日。正午。玉音放送。
戦争を知らない世代が63歳になった。
「あなたは戦争をどのようにとらえているか」
NHKは、こういうテーマで番組のコマーシャルをおこなっていた。
ぼくたちは、文学と映画、ドキュメンタリー、語り継がれた話でしか戦争を知らない。
当時の時代の雰囲気も、支配していた空気も、匂いも知らない。文字はどこまで戦争を伝えることができるのだろうか。
映像は、どうしても画面やスクリーンの向こう側。匂いは伝わらないし、映像のなかに自分を入れることはできない。
しかし、自分の身近な人々と戦争の関わりを紐解いていくと、さまざまなことが浮かび上がってくる。
あなたの身内に戦死した人はいませんか。
身内が戦死したことによって、状況は大きく変わりましたか。
あなたの母親は、あなたの祖父母は戦争とどう関わってきましたか。
問いかけていくと、第2次世界大戦は、遠い昔の自分とは関係のない世界の出来事ではなくなってくる。
それだけ、身近な問題であった戦争が、なぜ遠い彼方の問題であるかのようになってしまったのか。
8月15日にこんなことを考えてみるのもいいのではなかろうか。
ぼくの従兄の父は、海軍の兵隊として戦死し、父は、何度も戦場にかり出されていた。
従兄は、父の顔を知らずに育ち、戦死後はおじいちゃん夫婦に引き取られ、ぼくたちの兄のような存在として育っていった。
父は、ぼくたちがまだ小さい子どもだったので、戦争のことを語らなかったが、酔うと決まって「麦と兵隊」を歌っていた。酒浸りの父は、酒で身体をこわしぼくがまだ小学校に上がったばかりの6月に、いとも簡単に他界した。
母は、20歳の時教壇に立ち、25歳で終戦を迎えた。戦争に勝つと信じて教壇に立ち、子どもを教えていた母は、軍国時代の政治のお先棒を担いで、男の子を軍人に育て、女の子を銃後を守る人間として育てていた。黒く教科書に墨を塗った教師としての母は、死ぬまであの戦争にこだわって、8月15日を迎えていた。
「日本は正しい戦争をした」
母は、そんな風に自分を合理化することはできなかった。
和歌山県の、山間部にも戦争の波は押し寄せ、母が教壇に立っていた野上町にも学童疎開の子どもたちがたくさん来ていた。
和歌山市内まで映画「橋のない川」を見に連れて行ってくれた母。原爆の小説を読むようにすすめた母。平和という言葉は、母にとって懺悔する気持ちと重なっていたのかも知れない。
8月15日。日本帝国主義が敗北した記念日。アジアが日本の支配から解放された日。新しい時代が始まった日。日本の民主的な改革が始まった日。
宮本百合子の言葉が忘れられない。
「八月十五日の正午から午後一時まで、日本じゅうが、 森閑として声をのんでいる間に、歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった」
ぼくの母が戦争に負けたと涙を流していたその瞬間、宮本百合子は、歴史の大転換を自覚していた。
日本人の心情と歴史の流れの対比を見る思いがする。


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Posted by 東芝 弘明