自分にも登ることのできる階段はある
能力という言葉は好きじゃない。あの人は能力があるという話。能力って大事なんだろうか。
私はだめっていう人もいる。
見ていると、自分のできることに、線を引いている。
たまたま、学校の勉強についていけて、物事を理解する力があって、という人は、新しいことに挑戦する場合、あまりためらいがない。
読み書きそろばんという、基礎的な学力は、日本社会で生きて行くためには、必要だろう。こういう基礎的な学力がないと、新しいことに挑戦するのは、むつかしくなる。
わかるということを積み重ねて行けば、むつかしいことに立ち向かうこともできる。なかなか、理解し難いことにも、歯を食いしばって努力すれば、分かるときがやってくる。
理解する力は、階段を登るがごとく、だろう。いきなり、小学生が、医学書を読んでも理解出来ない。理解を深めるためには、階段を登らなければならない。
階段を登れば、富士山にもエベレストにも登れる。このことを体験として意識している人は強い。険しい山にも登るための作戦を組み立てることができる。
自分にも登ることのできる階段はある。まずはそこにのぼる。一歩一歩登れば、登ってきた階段も見えるし、視界も広がってくる。登らなければ始まらない。
自分にはできないと思いがちになるのだけれど、自分の前に線を引くことが、一番よくない。自分にも登れる階段を探して、一歩を踏み出す。そしてまた一歩、また一歩。
心に刻むべき言葉は、「止むは我が止むなり」だと信じている。