宮崎駿さんの引退会見

雑感

宮崎駿さんの引退記者会見の文字おこしがネットにあった。
スタジオジブリの宮崎駿監督が引退記者会見
全文を読んだ。
次の言葉が印象深かった。
「『メッセージを込めよう』と思っては作れないんです。こっちでなければいけないというのには何らかの理由があるんだろうけれど、それがわかっているようではいけない。」
この姿勢は、小説を書こうとする作家と共通している。
物語の中に登場人物を一生懸命描く。具体的な描写の中に作品のテーマを追求する努力をするのであって、神のごとく作品の中に作者の視点やメッセージを入れるのではない。
小説が物語の描写を通じて結実するように、映画も具体的に進行する物語をどう描写するかによって、作品が形になる。

追求したテーマがどれだけ描けているか。それは、読み手によって決まる。登場人物は作者の手のひらで勝手に動かせるものではない。具体的な形を生き生き描くと作中人物が生きてくる。「風立ちぬ」でいえば、菜穂子はこう考えるのではないかとか、堀越二郎はこう思うのではないかという形を追いかけることになる。作者は、一生懸命に、登場人物の気持ちに肉薄して、想像し、類推して具体的な物語を紡いでいく。人物をリアルに描けば描くほど、作者と登場人物には距離ができる。

宮崎さんの描く世界が、山田洋次さんの作品に似ていると感じるのはここにある。
山田洋次さんは、寅さんについて、ああいう状況の時に寅さんならどう考えるだろうかとか、どう行動するだろうということをよく語っていた(書いていた)。寅さんを生きた人間として捉えて、物語を紡ぐ。監督の都合のいいように作品の中で寅さんを動かさない。自分が紡ぎ出した人間なのに、あたかも自分の意識の外に存在するかのような生きた人間として扱って物語を作る。
映画が面白いのは、集団作業にある。映画監督が、総司令官になって作られる映画もある。でも宮崎さんも山田さんも、スタッフにさまざまな影響を受けながら作品を作っていく。その中で作品はさまざまなハーモニーを奏で始める。
引退会見では、声優の配役や音楽をすべて宮崎さんが仕切っていないことが明らかにされている。鈴木さんや久石さんが深く関わり、作品が動いていることが語られている。
山田さんは、映画が集団で作られるものであり、衣装や大道具、小道具を扱っているスタッフの心遣いが、映画や俳優に影響を与えて作品ができることを語っている。

作品世界の中の人物と作家との埋めがたい距離。これが作品世界を描写することであり、「『メッセージを込めよう』と思っては作れないない」という意味だろう。
自分のことをふり返ると、「その時の気持ちは」と問い返してもはっきりしないととがある。「なぜあんなに怒ったのか」分からないことも、涙が出てきた理由について説明がつかないこともある。嫌な感じがあって、それが形になるまで時間がかかることもある。
判断がつきがたい難しい問題に直面したときに、人間がどういう行動を取るのかというと、よく分からないことが多い。でも現実に生きる人間は、緊迫したときに何らかの行動をとる。生きるということは、そういうことなのだから、生き生きとした人間を描くということは、作品の中に実に豊かな人間の有り様を具体的に描くことになる。

作家が持っている思想性や哲学や認識は、作品に大きな影響力を与えるのだけれど、その人が具体的に紡ぎ出した作品が、その人の持っているものをすべて反映して作品が出来上がるわけではない。
作品というものは、陶芸に似ている。ろくろでお皿を作り窯で焼く。この窯で焼く作業には、陶芸家の手の届かない領域がある。火の温度管理を精密に行っても、窯の中で火がどのような影響を陶器に与えるかは、よく分からない。焼け方には、作家の手の届かない部分がある。

宮崎さんも山田さんも、このことを深く知っている。

そのようにして生まれた作品は、見る人によって違った感慨を引き起こす。作品を見ることによって、作品の豊かな部分が、見る人の感情に影響を与えていく。宮崎さんの作品が、見る人によって全く正反対だと思えるような感想や評価が出てくるのは、作品の豊かさの表れだろう。

このような豊かさを持った作品が新しく生まれないのは寂しい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明