子育てのプロセスはあと10年

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用事があったのである窓口に行くと同級生の女性が座っていた。
まずは要件を伝えてから、少し話をした。
「インターネットで、読んでいるよ」
彼女はそう言った。
娘が小学生だということも知っていた。彼女の子どもの1人は、今年から社会人になったという。
結婚が遅かったぼくは、同級生の人生と比べると子育てのスピードが遅い。周回遅れでがんばっている感じ。
娘は12月になると10歳になる。これまでの10年間を考えると、これから先の10年間はずいぶん早くやってきそうな気がする。あと10年すれば娘は20歳になる。
子育て真っ最中だと言っても、あと10年もすれば終わってしまう。
わが娘は、次第に自分の世界を広げて行き、親の知らない世界を作り自分の人生を自分で生きるようになる。
その成長のプロセスのなかで、社会や人生について、相対的な視点をもって自分を見つめることのできる人間になってほしいと思っている。
日々の生活の中に埋没していることも大事だが、自分の位置を俯瞰できるような視点を身につけることが大事だと思う。
物事を客観的に見る。多面的に見る。繋がりの中で見る。発展的に見る。歴史的なプロセスのなかで見る。固定した境界線はなく、時にはAはBに転化するということを認める。というようなものの見方は、哲学の学習なしには身につかない。
ぼくが、こういうものの見方を知ったのは18歳の時だった。ただし、こういうものの見方があると言うことを知識として学んでも、そのようなものの見方は、簡単には身につかない。
ぼくはまず、こういうものの見方を知識として学んだ。しかし、30歳を過ぎてから、科学的なものの見方を知識として学んでいるだけでは、身につかないことを痛感しはじめ、学習の方法、取材の方法、物事の分析の方法として、生かすという行為の大切さに気がついた。
このことを自覚することなしには、自分のものの見方の成長はなかったように思う。
娘がそういうものの見方を学ぶ機会を得て、自分の思考を豊かにしていくことを期待しているが、ではどうやってこういう科学的な見方と出会い、体得していくのかというプロセスは、まったく見えない。
言えることがあるとすれば、次のようなことだろう。
科学的なものの見方、考え方を身につければ、人生はさらに豊かに楽しくなる。
しかし、体得するのはむつかしい。体得は、発見ということの積み重ねがなければ実現しない。
たくさん本を読んで、人の話をたくさん聞いて、多くのことを柔軟に学ぶ土台があれば、自然に科学的な思考方法の門の前に立つようになる。多くのことを柔軟に学んでいけば、科学的なものの見方は自然発生的に自覚され始める。その時に、科学的なものの見方を体系的に学べば、目から鱗が落ちるように発見が積み重なってくだろう。そこには学問の面白さが渦を巻いて存在している。
なんだか、拳法の秘伝を伝授するようなことを書いてしまった。ぼくが書いたことは、観念的な戯れ言のごとしに聞こえるのではないだろうか。
学ぶという行為は、その人の主体的な活動による発見なしに豊かにはならない。言葉だけで伝わることもあるだろう。しかし、学びの中には、言葉だけでは伝わらないことも多い。
発見が積み重なっていくような学びが組織されないと、学習は成就しないのではないと思われる。
発見がない勉強は、まさに問題をパターン化して解いていく苦役のようなものになる。
学問の面白さは、謎解きの面白さでもある。謎を解くためには、問題を立てることが不可欠だ。
問題を立てる力を問題意識と呼んでもいい。問題意識のないところに謎解きは存在しない。
謎解きのない学習は、本物の学習にはならない。ということだ。
問題を立てる力とは、平坦に見える事象を前にして、さまざまなことを豊かに感じ取り、平坦な事象を起伏豊かな変化の中にあることを見ぬく力のことだろう。
問題を立てる力。この力は、問題を解く力よりも大事だろう。小さいときから問題を立てる力を育てて、独創力を養うような教育こそが大切になる。
大人から見てへんてこな問題意識をもって、誤った答えを出すとしても大人はその芽を摘んではならないように思う。
へんてこな問題意識に寄り添って、なぜ誤りを犯したのか、できればいっしょに考え、誤りを真理の発見の契機にするような指導が大切になる。子どもが自分で誤りに気がつき、本物の解を見つけていく体験ができれば、誤りと正解の2つの思考プロセスを学ぶことになる。
問題を立てる力がついてくると、簡単に解決できないことの方が多いことにも気がつく。問題意識は、直ぐに解決しないことの方が多い。10年以上抱え込んでしまう問題意識や、謎が解けない問題意識は無数にある。持続して自分の中に蓄積されていく問題意識のなかで、真剣に向きあうものが生まれてくれば、その問題意識は、その人の人生に深く関わるものになる。
謎解きの旅は、人生の伴侶のようだ。自分が年輪を重ねていくプロセスのなかで謎は解けるかも知れない。
天才と呼ばれた科学者でさえ、解けない謎を数多く抱え込んで亡くなった人は多い。アインシュタインがそのひとりだった。
娘がたくさんの本を読んで、自分のものの見方考え方を豊かにしていくプロセスのなかに、親としての存在が組み込まれていくように、娘とさまざまな話し合いの機会をもちたいと願っている。
今は、友達同士のことから深い話しあいをすることもある。夢中になって2人で話しあいの場をもつことが、親子にとって良い時間のように感じている。
昔、母と高校生の兄貴が対等に議論していたことを、ぼくはうらやましく思っていた。ぼくが高校生になったら、母と対等にいろいろなことを話してみたかった。
その夢は、まったく叶わなかった。ぼくがそのことを望み始めたとき、母は病院のベッドの上だった。
わが娘は、成長してもそういう議論を求めるだろうか。
中学生、高校生になっても会話のある親子でいたいと願っているが、それは叶いにくい夢だろうか。


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Posted by 東芝 弘明