私は多くの人に握手を求める

雑感

さあ、今年1年が終わった。議会が終わってからは、集金ばかりしていた。12月31日午後7時30分、最後の集金が終わった。
一人暮らしの男性読者だった。
「最後に会うのがぼくだというのも、何だかねえ」
そう言いながらお金をもらった。

集金が終わったあと、今年最後の夜景として撮った写真がこれ。
IMG_2731

年末の雰囲気がしている。

今年は、参議院選挙で日本共産党が躍進した。しかし、その後安倍政権の暴走が加速して、特定秘密法案が強行可決した。今、戦後民主主義が試されている。私たち国民は、日本国憲法の精神を血肉にして、力を合わせて立ち上がることができるのか。立ち上がって、日本の反動化をくい止めることができるのか。
安倍政権が、可決した特定秘密法案が、安倍政権の終わりの始まり、国民に背を向けた自民党の終わりの始まりとできるかどうか。ここ数年、日本の進路が問われる数年間になる。危機と展望が入り混じりせめぎ合う時代の中で、精一杯たたかいたいと思う。

特定秘密法案が通ったときに、「日本が戦争に突入するなんてあり得ない」という意見を耳にした。そこから考えはじめたことがある。日本国憲法下で戦争を起こすのは、不可能になっている。
戦争ができない根拠は、日本国憲法にある。国民に主権があり、政府の手によって戦争を引き起こすことを禁じ、軍隊をもたない、戦争をしないという憲法第9条をもっているこの国は、政府が憲法を守る限り、絶対に戦争を起こせない。
もし戦争が起こるとすれば、それは、政府が憲法を踏みにじり、国民主権に制限をかける必要がある。国民主権に制限がかかり、国家が憲法を踏みにじろうという動きは、政治の世界ではじまる。国会の動きに興味のない人は、戦争の匂いを嗅ぐことはできない。国民の生活レベルでいえば、どこを探しても戦争につながるものはない。
日本国が、戦争を始めるためには、国家が国民に対し、戦争を暮らしの中に差し込まない限り、戦争は起こらないということだ。日常生活の範囲で、自分たちの身のまわりのことだけを見ている人、政治に興味を感じない人には、戦争の動きが見えない。

国民主権は、国民主権を守る運動なしには維持できない。国家が憲法を踏みにじって弾圧法を成立させたり、集団的自衛権を行使できるような動きを強めたるする動きを把握しないと、戦争の動きはつかめない。どれだけの規模で、国民の中にこの危険な動きを伝えることができるかどうか。このことが、良心的なすべての人々に問われている。自分たちの未来、子どもたちの未来を守りたいのであれば、傍観者になったり、体制に迎合したりしてはいけない。

戦争を遂行しようとする勢力は、平和を語る。日本を守ると言う。日本を守るために、英霊という言葉を使って、参拝して見せて、永遠の平和を誓う。戦争を具体的に準備すればするほど、平和を語る。
この言葉は、本質を知る者にとっては許しがたい欺瞞に聞こえ、擁護する者にとっては、安心感を与える言葉に聞こえる。

平和は眠りを許さない。
国家が国民の生活に差し込んでくる戦争準備を見抜く目をもたなければならない。平和を脅かす者は、必ず、国民の自由と民主主義に制限をかけ、国民主権を踏みにじろうとする。この動きに敏感でなければ、戦争の企みを見抜けない。もちろん、自由と民主主義を犯す法律を作っても、懸念を払拭するために彼らは努力をはらう。首相が大丈夫と言うから、大丈夫だと思ってはならない。
自由と民主主義を否定する条文は、法律の中にある。こういう法律を作りながら、「大丈夫です。ご心配はいりません」といい、「説明します」「懸念を払拭します」というのは、誤魔化しに過ぎない。そもそも、作った法律は安全ですと熱心に説明しようとするのは、制限をかけているところから出てくるものだ。

情報化の時代は、本質も見抜く目を培わないと、都合のいい情報に押し流されていく。日本のマスコミは、政府と蜜月関係にあり、情報を大量に流しながら、事実をまもとに伝えない。

「分かってもらうために何から説明したらいいか、考えたんよ。原発事故が分かりやすいと思う」
集金先でこんな意見を言った女性がいた。卓見だと思う。原発事故から日本の歪みがすべて見える、と言っていい。

新しい変化の中で新しい年がはじまる。国民が声を上げれば平和は守ることができる。黙ってはいられない。世論は、国民がつくる。私は多くの人に握手を求める。

1年間、ありがとうございました。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明