いじめ問題と学校現場の自由

雑感

読売新聞を読むと、大阪府寝屋川市で3人、兵庫県豊岡市で2人の中学生を逮捕したという記事があった。いずれもいじめによる傷害事件だ。いじめは犯罪になるということが、大津市のいじめ問題を通じて明確にされた結果、中学生の逮捕ということが現実のことになり始めた。
いじめられた子どもの命と人権を守るという点で、逮捕は必要なことだと思われる。

日本の学校が、社会から隔離され独特の文化の中に囲い込まれているという指摘がある。この指摘にも共感する。中学校の校則については、社会のルールを守る子どもを育てるためにあると説明している。しかし、黒い靴下をはいていたら「だめだ」といい、体育館で脱がすというようなルールは社会に存在しない。スカートの長さをサシで計るというのも存在しない。
中学生は、日常的には中学校の先生、クラブ活動の指導者、塾の先生ぐらいにしか会わない。日常の生活パターンが非常に画一化して、地域社会から隔離されている。このような環境の中で生活していると、中学校のルールや塾のルール、クラブ活動のルールがほとんどすべてになってしまう。この画一化した生活の中で、支配的な文化は、同質性をたえず強要するところにある。
ここに深刻ないじめの構造があるといわざるをえない。学校の文化の中に囲い込んできたあり方そのものが問われている。つまり、中学生を長時間、クラブや塾に囲い込んでいる現状を変えることが求められているのだ。

長時間のクラブや塾の問題は、どうして起こるのか。何が問題なのか?
これは、国民的な討論が必要だろう。
ぼくは、クラブ活動を地域に戻すことが大事だと思っている。同時に、学校が行っているような長時間の練習を毎日おこなうような状況についても討論が必要だろう。
地域の活動を通じて、豊かな文化、豊かなスポーツ環境を実現することが、開かれた学校をつくる道ではないだろうか。

いじめの問題では、学校の教師のおかれている現状についても、問題点が浮き彫りになりつつある。
若い先生から、「いじめへの指導は教師の仕事ではない。教師の仕事は授業をすることだ」とか、「仕事が忙しいのでいじめに手を取られるのは鬱陶しい」というようなコメントが寄せられている。
これは、文部科学省と教育委員会が、学校現場への支配を強め現場に仕事を増やしていることに最大の原因があるのではないだろうか。
忙しさに忙殺されている中で、日本の教育の原点が見失われている。
日本は人格の完成をめざすことを教育の目標にしてきた国だ。人格の完成とは、知性と理性をあわせもった人間を育成することだろう。知識を身につけるとともに、他人を尊重し思いやることのできる理性を培うことが目標であるならば、いじめ問題は、教育のど真ん中の課題、教師が全力で取り組まなければならない課題の一つになる。

学校現場に必要なのは、フリーハンドつまり自由に他ならない。自主的に授業内容を編制できるようにするとともに、子どもと関わる時間を保障しないと教育は発展しない。豊かな教育には自由な時間が必要だ。仕事が忙しいからいじめ問題には取り組めないという言葉を、教育委員会は深くとらえ直さなければならない。
「自由を与えたらまともな教育は実現しない」という言い分があるかも知れない。しかし、これは、教育現場の力を信用しないに等しい。
学校現場の多忙化は、教師を支配するために行われている。
教師の支配は、教育を国の統制下におくために行われている。そういう教育を推進する根底には、財界の要求がある。産業界に必要な人材を育成するために教育は最大限利用されている。

教育に自由を与えると国民の中に批判的な精神が培われる。現状を批判的にとらえる精神こそが、学問の根本的な精神だ。この学問の最も中心的な哲学が、教育の中で育つことを最も恐れているのは、日本を支配している勢力だろう。理知的な人間は、批判的な人間にならざるをえない。正義を愛し、不正をただし改善を求める人間は知性と理性を合わせもつものだと思われる。
教育にとって、自由は何物にも代えがたい最も重要な土壌となる。自由という土壌に教育は豊かな実りを実現する。
教師に自由を与えることは、学校現場からいじめをなくす最大の保障になる。自由とは正反対の徹底的な管理と統制は、いじめの土壌となる。

雑感

Posted by 東芝 弘明