差異から始まる学問
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トリノさんのコメントに答えた文章にさらに手を加え、ブログの本文記事に載せておきます(コメントよりもこちらの方が少しは分かりやすいかも知れません)。
物事を人間が認識する際、出発として大事な視点は、差異だと思います。物理学者の佐治晴夫さんは、透明なガラスが目の前にある場合、人間はガラスを認識できないが、例えば小さな赤い点がガラスに付着していれば、人間はガラスを認識できるというたとえ話をしたことがあります。
ガラスに付けられた赤い点が、差異だということです。
人間の認識の発展も学問の出発も、差異を発見するところから始まりました。学問において分類学がまず形成されたのは、個別の物と物とを比較検討することによって、類似とともに差異を確認し、細分化することが必要だったからです。
ぼくは、物事への認識を深めるときに、まず差異を確認するところからはじめます。自治体の施策を見る場合も、他の自治体との比較検討によって、その自治体の特徴を把握するということもよくします。
物事を徹底的に比較検討することは、Aという物質をBやCやDやE……との間で違いとともに共通点を明らかにするということです。それは、Aに繋がっているBやCやDやE……との連関を明らかにすることと繋がっています。しかし、差異を軸にした比較検討は、物質と物質との関係性の分析であるにもかかわらず、その物質の性質を独自に明らかにするという側面を持っているので、他の物質との関係を切り離して理解するという習慣を生み出しました。
ところで人間は、動いている物をなかなか認識できません。差異を軸にした分析という方法は、その物質を静止させ、さらに他の物質との運動を切り離して見る見方を生み出しました。しかし、物質の運動法則を理解するためには、運動そのものの研究に進む必要があります。そのときには、実験の条件をできるだけシンプルにし、1つの変化だけを見られるようにする工夫が行われました。このような工夫が延々となされてきたのは、複雑に関係しあっている現実の運動を同時に認識し、絡まり合っている運動法則を一度に見極めることは不可能だからでした。
物質の性質を見極める場合でも、物質の運動を見極める場合でも、差異を軸にした分析的な方法が、極めて大事だということです。科学は、科の学です。物質の性質を見極めるためには、細分化し、専門化することが必要でした。科学の科は、分類という意味をもっています。科学が発展していなかった時代に、全体的総合的な意味をもっていた学問は哲学でした。哲学は、学問を総合する学問だという意味をもち、科学の上に立つ総合的な学問だったということです。
木にたとえるならば、生い茂った枝が細分化された科学であり、根っこと幹と枝全体が哲学だということになります。科学と哲学の関係は、部分と全体だということです。
差異を軸にして分類し分析して明らかになってきた物質の性質が、自然の中で実際にどのような役割を果たしているのかを理解するためには、それらの物質を実際の連関の中に置いて理解することがどうしても必要になります。これは、徹底的な分析によって明らかにされた物質の性質を他の物質との関係の中で、どう運動しているのかを明らかにする努力だといえるでしょう。現在の自然科学の研究は、徹底的に要素に還元する努力を行いながら、今度は逆に階段を一歩一歩登るがごとく、他の物質との関係の中でどう変化していくのかを捉えるところに存在しているように見えます。これは、物事を生成し、変化し、発展し、消滅する過程の中で捉える努力そのものであり、それは総合するということに他なりません。
機械類を分解すれば、よく分かりますが、徹底的な分析は、ネジを一本一本緩め、部品を取り外していく行為によく似ています。分解の工程どおり部品を並べたり、同じ部品を集めたりというように分解の仕方には、いくつかの方法があります。分解作業は、物事の成り立ちを分解作業を通じて理解することに等しいものです。しかし、分解作業は、総合と比較すると総合よりも高度だということにはなりません。分析力という力は、高い評価を受けたりしますが、分析以上に総合は、はるかに難しいという特徴をもっています。
機械を分解した経験を持っている人は多いと思います。一旦分解した機械をもう一度組み立てると、組み立ての方がはるかに厄介な作業であることは、分解した人にはよく分かる話でしょう。ネジを使う場合でも、部品をはめ込む場合でも、元の形にぴったりはめ込まないと、組み立てはうまく行きません。他の部品との関係で、正確に位置を見定めないと、機械は元通り組み立ちません。
徹底的に要素に分解する分析と、物事の連関を明らかにする総合にも、機械の分解と組み立てと同じ関係にあります。総合は、分析よりもはるかに高度だということです。
こう書くと分析は簡単だと受け取られかねませんね。実際の分析が非常に難しいのは、分析対象になる物事の要素が全部明らかにならず、人間の目には現象が見えるだけだからです。機械の分解の場合は、機械を構成している部品が全部見えます。半導体などのチップのように素人には全く意味が分からないものがありますが、専門的な知識をもった人々が集まれば、機械を構成している部品の役割は全部把握することができます。それでもコンピューターになると、さまざまな物質の積み重ねによって、部品が構成され、それぞれの部品と部品との関連が複雑になってくるので、技術の発展によって、プログラムが簡素化されたり、部品の見直しやチップの発展によって、小型・軽量化がはかられたりするので、実際は非常に複雑なものになります。コンピューターを発展させるために開発に膨大な時間と人がつぎ込まれるのも、こういう事情があるからです。ここにも分析と総合の問題が絡んでいます。
より複雑な形を形成しているのは生物です。医師の診断が非常に難しいのは、分析の困難性を示しています。病気という現象は把握できても、その病気の原因を特定できないことが非常に多いのは、病気の全体像を把握するのが困難だからです。原因不明の病気は非常に多く、特定の名前が付いている病気でも、治療方法が確定していないものは、病気の全ての原因を把握できていないということを意味します。私たちが、まず直面するのは現象であり、その現象が何によって形成されているのかは不明です。現象の本質を見抜くためには、その現象を生み出している要素を徹底的に分析する必要があります。しかし、多くの場合、その現象を構成している要素を現象の中から特定するのが、極めて困難です。
社会的な事象の分析にも同じことがいえます。社会も歴史も人間は、一度に全ての物事を理解することはできません。その現象を引き起こしている要素を特定することが困難なので、なかなか分析が進まないことになります。
もっと単純な化学でも、「目の前に透明な水溶液があります」と言われただけでは、その水溶液にどのような物質が溶け込んでいるのかを特定するのはなかなか困難です。AとBとCという化合物が混ざった○○水溶液と言われれば、どういう化学変化が起こるのか分かりますが、何が入っているのか分からないと分析は非常に困難になるということです。
それでも、その困難な分析をした上でさらに総合を行う場合、総合の方がより高度になるということです。
学んだことをくり返し、現実のなかに生かす努力は、分析と総合のくり返しだと思います。小さい頃から分析と総合をくり返し学ぶ中で、物事の分析の仕方と物事の総合の仕方が身につきます。分析と総合を学ぶことによって、人間は、物事を運動の中で捉える力を身につけられるのではないでしょうか。
現実の全ての事物は、複雑に絡み合って存在し、運動しています。運動のない物質はありません。物事の運動は、時間を必要とします。物質の運動の仕方は、時間と深く連動しています。変化というのは時間によってはかられます。全ての物質には、歴史があります。歴史というのは、時間の積み重ねです。したがって、歴史的な経緯をふまえるものの見方というのは、その物事を運動の中で把握するに等しいということです。物と物との連関をとらえ、変化の時間的経緯を重視するものの見方は、弁証法と呼ばれています。
差異を軸にするものの見方というのは、その中に批判が含まれるということでもあります。差異を見ていくと、ときにはA=Bという関係を発見するケースもあります。このA=Bは、AはCではないしD、Eではないということを含んでいます。A=Bというのは、AはBであるというように物事を規定することです。物事を規定するという定義の中には、否定が内包されています。規定性は否定性を含むということです。
物事は、多面性をもっています。必然と偶然とは密接に絡み合っています。物質を離れた本質は存在せず、本質はたえず現象の中にあります。磁石のNとS、原子の陽子と電子、電気のプラスとマイナス、これらは、相反する2つの傾向が1つのものの中に同時に存在するというものであり、この相反する2つの傾向が同時に存在するという物質の基本的な成り立ちを具体的に理解することが、複雑な物事を複雑なまま捉える力になります。
子どもの素朴な好奇心のなかには、どうして、なぜという問いかけが含まれています。この問いかけは、物事の本質を知りたいという欲求であり、この欲求に答えるためには、子どもの疑問を解きほぐす必要があり、それには、差異と類似という考え方を駆使する必要があります。子どもの素朴な問いかけには、素朴ではあるけれど物事に対する批判的なものの見方が含まれています。なぜ、どうしてという疑問は、物事に対し問いを立てる力とつながるものです。この精神を育てることが、物事を意欲的に探究する心を育てることにつながります。このことを考えると、小さい頃から物事を批判的、多面的に捉える視点を育てることの重要性が分かると思います。
学問の本来の姿を子どもに伝えるためには、子どもが認識できるように、上記に書いたような分析と総合に代表されるような科学的なものの見方考え方を培う必要があると考えます。分析し総合する力は、基礎基本の徹底の先にあるのではなくて、物事を認識する最初の段階から培う努力が必要だということです。
東芝さんとは、教育に関する個人的な哲学が違います。当然、子供に対する教育も違ってくるのですが・・・
僕は、学問は人間の興味から始まったことを学ぶものと考えています。だから子供には、その好奇心を持つように育てました。もちろん小さい頃(小学生入学前)までの段階です。でも小学生からは違います。人間の英知の歴史、文字や算数、理科・・・そういうものの記憶(歴史)を学ばせるように育てています。つまりインプット重視です。高校まではそれが必要だと僕は思います。それ以降は・・・子供の次第。高校までは親の責任で全力を尽くしてインプットしますが、それ以降は親の力ではどうにもなりません。というか自主性にまかせます。それが僕の教育に対する哲学です。
東芝さんの理想とするアウトプットを、実際どう教育するのか具体的にわかりません。またそれがどう教育に役立つのかもわからない。
例えば、中学校でディベートマッチを取り入れているところもあり見学もしましたが、これは相当高度な方法で教員・生徒のレベルがある水準以上になる必要があり、現実には難しいと思います。
東芝さんの哲学の趣旨は分かりましたが、実際にどんな方法で教育するのか示さないと、単なる理想思想論だけで、実現不可能なものになります。
トリノさんの言いたいことは、分かるように思います。ぼくの家庭は、3人だけで娘が一人いるだけです。小さい時から娘の疑問に一生懸命答えてきて、高校一年生になってもいろいろな話をしてくれる娘に育っています。
ぼくが書いているような家庭における教育をしてきたつもりで、その成果もあってか、娘は勉強の好きな子に育っていますが、それをもって教育論を唱えられるような状況にはありません。
兄弟が数人いる家庭の子育てと、娘一人の子育てとは、かなりの違いがあると思います。
齋藤孝さんの本を好んで読んできました。この方の専門は授業研究です。大学のゼミ生を相手に参加する授業、アウトプットをさかんに求める授業を齋藤さんは実践していますが、この授業を通じて、学生がものすごく活性化する様子が本に描かれています。ただし、トリノさんがいうように、このような教育実践は、教える側にもかなり高度な訓練を求めるものです。
幸いなことに、ぼくは、小学校の5年生と6年生の2年間、齋藤孝さんの授業のような教育を受けてきました。その先生は、まさに天才肌的な先生で、授業の一切を教科書を使わずに教えてくれるような方でした。インプットとともにアウトプットを同時にさかんに求めるような授業でした。
国語の授業などは、子どもが文学作品をどのように受けとめるのか、どのような理解の仕方を示すのか、まさにキャッチボールのような授業でした。大人になってから、先生にシナリオのない、まさに真剣勝負のような授業だったと聞かされたことがあります。
このような授業を縦横に組み立てられる先生は、そうざらにいるものではないと思います。この先生のもとには、多くの先生が集まり、教えを請うような状況がありましたが、ぼくの恩師を超えるような先生は、なかなか育たなかったように思います。
おそらく、こういう教育的な経験と本から学んだこと、さらに議員になって身につけた物事を探究するときの姿勢などが、インプットとアウトプットの考え方の基礎になっているようです。
しかし、齋藤孝さんが研究しているように、インプットとアウトプットを豊かに組み合わせる授業研究は、もっとさかんに行われるべきだとも思います。
教え込む教育は、徹底的に体系的にシナリオどおりに授業を進めるということで成り立つと思います。これに比べ、インプットとアウトプットを組み合わせた授業は、生徒とともに学び考えるというものになると思います。先生がボールを投げて生徒が三振するか、ホームランを打つか、投げてみなければ分からないという、シナリオのない授業、先生の授業の計画や指導案があったとしても、先生の思惑を超えたところで成立する授業というものは、豊かな努力なしにはできないものだと思います。
日本の教育は、徹底的に教え込むなかで組み立てられてきました。しかもこの教え方は、小学校よりも中学校、高校になればなるほど、傾向としては強まります。生徒はただ単に授業を聞くだけ、机に座っていれば、1時間が過ぎていくという方法がもたらす弊害が大きいと思っています。参加する授業と言っても、先生に当てられて一言二言しゃべっておしまいということを延々と繰り返しているだけでは、社会性や能動性、積極性は身につきません。学校生活におけるアウトプットは、クラブ活動や作文の提出、絵画の提出、何らかの発表会などに限られています。この分野で活躍できる生徒が、ごく少数、インプットとアウトプットを体験し、力を伸ばせるのではないでしょうか。
わが娘は、子どもの頃からピアノを習うことが好きで、中学校では吹奏楽に入り、幸いなことに紙芝居や作文で活躍し、みんなの前で発表させてもらえる機会に恵まれてきました。でもこういう機会は、全ての生徒に与えられてはいません。ここに日本の教育が抱えている大きな問題があると思っているのです。
お二人の御説ごもっともですがね。俺は家庭環境のせいで、(父親がアル中で家庭内暴力が絶えなかった。そのせいで家庭内は荒廃していた。いや崩壊していた。そのくせ県庁では重職についているという2重人格者であった)登校拒否児であったのだ。この父親は特に俺に対する暴力が日常茶飯事で顔を腫らして学校などには行きたくなかったし、俺も厭世家になり、積極的態度で不登校児であった。ひとつには父親への復讐の気持ちがあったのだ。
当然、俺には基礎学力など学校では学ばなかった。俺が逃げ込んだ所は図書館であったのだ。元来、勉強は好きであったので、本を読みまくった。教科書などの解読も図書館でやっていた。その時期は小学校と中学校である。一人で自力で勉強したのだ。その結果、「本」というものは実に有難いものだという習性が身についた。父親の暴力に対抗するため、中学の時、柔道と空手に打ち込み、体格もずば抜けてよくなり、ついに、柔道の黒帯の有段者である父親の暴力をある日撃退し、それ以来父親から殴られる事はなくなった。
図書館には俺と似た境遇の人物がある程度存在していた。小説を書いている者、量子力学を研究している者、学習室で五線譜に熱心に作曲をしている者、(こいつからはギターを習った)などなど、中にはサヴァン症候群ではないかという天才的な者もいた。俺はそういう連中の仲間になった。図書館には食堂もあったから、仲間と飯を喰い、喫茶室で熱く議論を戦わせたり、中にはエキセントリックな奴もいたので、閉口したが、とにかく楽しかった。
お二人のお説を聞いていると、普通の人々の教育論として読めるのだが、俺のように学校というパブリックな社会からはみ出して、自力で這い上がってきて生きてきた人間達がいる事を思ってほしい。俺はその後、紆余曲折はあったが京セラに主席で入社し、技術設計部で図面を制作する仕事を長年務め、どうも、俺は組織に適合できない性格と分かり(技術設計部の上司と喧嘩になり、殴りとばして辞めますと言って辞めたのだ。給料は良かったのに)自分で会社を興したりして糊口をしのいでいた。今は自由業の身であるが、それは10年程前に小説家になろうと決心して、自分の時間を自由に使えるように人生設計を変えたのだ。今、また、これで最後と思い、「文学界」に小説を投稿してみようかと考えている。
さて、学校教育はなんの為にあるのか。将来の安定の為か。東大を頂点とする教育論なんて俺にはバカバカしくてお話にならんと思いますね。学ぶという事は結局、「自分は何の為に存在するのか、何をするべきなのか」という事に尽きると思いますね。そして、社会の矛盾にぶちあった時にその壁を突破するスキルを身に付ける事だと思いますよ。
WAOさんの話、興味深く読ませていただきました。
WAOさんにとって、図書館が「私の大学」だったんですね。アメリカには、図書館でさまざまなことを学び、社会に出ていった話がたくさんあるといいます。日本にも同じようなことがあるんですね。アメリカのニューヨークにある図書館には、ビジネスに特化した図書館もあり、キャリアアップのための無料の講座がさかんに開かれているし、巨大な総合図書館もあるようです。アメリカの中にあっても、図書館は、無料のサービスが展開されています。演劇専門図書館、映画専門図書館、写真専門図書館など極めて専門的な図書館もあるようです。
「学ぶという事は結局、「自分は何の為に存在するのか、何をするべきなのか」という事に尽きると思いますね。そして、社会の矛盾にぶちあった時にその壁を突破するスキルを身に付ける事だと思いますよ」
この言葉は、何事かを学ぼうとするときの「哲学」として心に留めたいと思います。