作家の戦争協力

雑感

アンのゆりかご
アンのゆりかご

『アンのゆりかご―村岡花子の生涯―』を注文した。
興味があったのは、村岡花子が、「第二次世界大戦中は大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加するなど、戦争遂行に協力的な姿勢を取った」というところにある。戦争中、多くの作家は、戦争に協力した。現在の視点から戦争に協力した作家を批判することは簡単だけれど、その時代の中にいた作家として、人間としてどう生きたのか、なぜ戦争に協力していったのかを歴史の中で見直していくことの意味は大きいと思う。

宮本百合子の短い文章がある。「戦争と婦人作家」というエッセイだ。
全文を載せておこう。

 これまでの日本はいつも天下りの戦争にならされていました。天皇制の封建的な、絶対的な教育の下で、人民は戦争を「思惑の加った災難」として、無批判に服従してきました。
そして今日の破局に到りました。日本に戦争反対の心がなかったかといえば、小田切秀雄の「反戦文学の研究」をみてもわかるとおり、いつもときの戦争に反対した人道的な精神はありました。天皇制の権力はそういう文学を非国民の文学とし最近の数年は治安維持法でとりしまりました。外国の人々は日本の婦人が、あれほど惨酷な戦争に対して何一つ組織立った抵抗をしなかったことに、おどろいています。日本人はそこまで惨酷なのかという誤解を抱いてさえいます。しかしその人々は日本の封建的社会の中で、愛情の表現も、憎悪の表現も、社会化することを許されなかった日本の悲劇を理解しなければなりません。日露戦争のとき大塚楠緒子が、「お百度まいり」という作品をかき、与謝野晶子が「君死に給うことなかれ」という詩をかいて戦争の惨酷に反対したことは有名です。しかしこの二つの代表的な婦人の手による戦争反対の作品は、日本の文学史に全文をのせることさえはばかられていました。与謝野晶子の詩が発表されたとき大町桂月が非国民だと言って当時の『明星』を大批難しました。
最近の十数年間に、日本の婦人作家はどんな戦争反対の活動をしたでしょうか。今日になってみると侵略戦争に反対したモチーフをもっている作品は、例外的にわずかで、吉屋信子、林芙美子そのほかほとんどすべての婦人作家が、むしろ戦争に協力した悲惨な事実が発見されます。しかしこれらの人すべてが侵略戦争を心から賛美していたとするのはあやまりです。ジャーナリズムの統制がきびしくなり軍御用の作家でなければ作品発表がゆるされなくなったとき、ブルジョア出版社の出版からの収入でそれぞれ「有名な婦人作家」として存在している人々は、自分のジャーナリズムの上の存在を保つためと、読者から名がわすれられないためにも、いつも華やかな場面につき出ようとしました。つまりきわめて安定のない婦人の経済的自主性を守りつづけてゆくために、彼女たちにとっても疑問が感じられたにちがいないファシスト的処世術にまけました。
この深刻な文化上の婦人の能力の利用されかたと、薄弱な婦人の経済的独立の基礎を考えるとき婦人の作家たちが日本のすべての勤労する婦人の利害と、全く一つの事情におかれていることがわかります。婦人作家が日本人民としての自分が紡績工場に働いている娘たちの境遇にどんなにちかいものであるかということを知ったときにこそ、婦人作家はファシズムとはなんであるか、侵略戦争とはなんであるか、一つの国の人民の幸福を他の一国の利益のためにふみにじるとき、その血はすべてふみにじったものの上にかかるということを理解するでしょう。

宮本百合子の上の文章の中で、一番印象に残ったのは、次の下りだった。
「今日になってみると侵略戦争に反対したモチーフをもっている作品は、例外的にわずかで、吉屋信子、林芙美子そのほかほとんどすべての婦人作家が、むしろ戦争に協力した悲惨な事実が発見されます。しかしこれらの人すべてが侵略戦争を心から賛美していたとするのはあやまりです。ジャーナリズムの統制がきびしくなり軍御用の作家でなければ作品発表がゆるされなくなったとき、ブルジョア出版社の出版からの収入でそれぞれ「有名な婦人作家」として存在している人々は、自分のジャーナリズムの上の存在を保つためと、読者から名がわすれられないためにも、いつも華やかな場面につき出ようとしました。つまりきわめて安定のない婦人の経済的自主性を守りつづけてゆくために、彼女たちにとっても疑問が感じられたにちがいないファシスト的処世術にまけました。」

現代の流行作家にしても、芸能人にしても、同じことが問われている。かなりの実力がないと、表現者であるはずの作家や芸能人が、自己表現の一つである政治的信条を明らかにすると損をするというような空気がある。原発についても、戦争についても発言すれば、仕事が奪われる可能性さえある。参議院議員になった元俳優の人は、反原発の態度を表明したので仕事が奪われた。これは記憶に新しい。
空気を読む日本、体制に逆らえない日本、企業や自治体が法律に違反していても声を上げられない日本。国民が日々感じている窮屈な世界は、文学の世界でも芸能界でも同じように蔓延している。
そういう日本を理解した上で、村岡花子という人が、具体的に何をどう考えて生き、戦争に協力していったのか。これを追体験したい。
安倍政権の元で国家秘密法が制定され、集団的自衛権行使に舵を切りつつある日本は、確実に戦争参加への道を暴走し始めている。NHKや読売新聞、産経新聞、いくつかの週刊誌は、安倍政権が突き進もうとしている道を、さらに拡大して進軍ラッパのようになりつつある。巨大なスピーカーから流される右翼的な大宣伝が、ヘイトスピーチやネット右翼を増大させているなかで、憲法を守るとか9条を守るとかいうことが、はばかれるような空気が生み出されている。歴史としてしか、知らなかった戦争への道が、具体的な日常という形で再現されつつある。戦争協力がどのようにして生み出されていくのかということも再現されるている。この時代に、作家がどうして戦争に具体的に協力してしまったのかを見ることは、深い今日的な意味をもっている。

もちろん、こういう側面からだけで、『アンのゆりかご』を読もうとしているわけではない。この人の人生に魅力を感じている。「花子とアン」という連続テレビ小説に触発されたということもある。この作品は、村岡花子の生涯をドラマとして再現したものではなくて、『アンのゆりかご』をもとに作られたフィクションになっている。いずれにしても、すべてのドラマはフィクションにならざるを得ないのだけれど、「花子とアン」には、村岡花子と比べると、基本的な事実や設定に明確な違いがあるので、普通の自伝的なドラマよりもフィクションである要素が大きい。
でも「花子とアン」を出発にして、村岡花子の生き方に興味が湧いて、注目が集まっているのはいいことだと思っている。現実の村岡花子には、テレビ小説にはない魅力もあると思っている。

秋が始まりつつある。本が恋しい季節が手招きしている。

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Posted by 東芝 弘明