青年同盟
25歳以降、民主青年新聞という新聞にせっせと現代詩を投稿していた時期がある。ノートには掲載された詩が保存されている。その頃から30年近くが経ち、当時は、二昔以上前のこととなった。20歳のとき、日本民主青年同盟の専従者になったぼくは、同年代の学生や働いている人々にかかわっていた。同世代の多くの若い人の人生に触れていた時代は、みずみずしかったのだろう。書いている文章には、その当時の呼吸が刻まれている。
茶色く色あせた新聞の切り抜きは、ノートに挿まれているが、貼り付けていた糊が剥がれているものもある。それらを少しずつテキストに起こして残しておきたいと思いはじめている。この作業は、30年近くを経て現代詩を書く力になるかも知れない。
当時の自分のペンネームは「高峰はるか」、選・評は門倉さとしさんだった。
掲載された作品のひとつ、「青年同盟」
青年同盟
和歌山 高峰はるか
ぼくのまわりにいた
仲間たち
有田の山奥から出てきた印刷会社で働くあいつ
九州から和歌山大学に来た女の子
大阪のコンクリートの谷間がふるさとだと言う先輩
紀南から出て来て何年にもなるバンカラ公務員などなど
ぼくも田舎から大学へ通うためにここに来た者のひとりだった。
それが
この和歌山市内で
出会い
男も女も生活をみつめ
ともに笑い
政治を語り
そして
たたかいに参加した
何度もくりかえされた
国政選挙や地方選挙では
演劇部出身のかれが
ハンドマイク隊の組織名人となり
若いのに髭の濃いあいつが
ビラまき隊をきりまわし
涙もろいがんばり屋の彼女が
印刷屋顔負けのビラを書き
理屈屋の学者タイプの先輩が
炊事隊長になって〝おたま〟をもち
「落研」のカベ相手の練習生が
商店街で名弁士になって人気を集め
澄んだ声をよそいきにした女の子が
公明党に負けじとウグイス嬢になった
それらがみんな力を合わせて
ただひとつの願い
日本共産党の躍進のために
たたかった
その時にも
一人一人の生活には
安い賃金のことや
家の人の活動反対や
職場の三交代のつらさや
アルバイトで食いつなぐ学生や
その他もろもろの背景があった
だからこそ
たたかったともいえるのだ
めいめいが
ふるさとでない
この街で
六万青年の心をつかもうと
力を合わせた
かじりはじめの
マルクスやレーニンを
そして、日本共産党のたたかう道を
ときにはコウトウムケイな革命論まで
ひっぱりだして
笑いころげて夜を明かしたのもその頃
二階だての狭苦しい民青の事務所や
傾き掛けたボロボロの男子寮や
青年センターとして建てたプレハブの選挙事務所
ここに
ぼくや、ぼくたちの仲間の青春があった
青年同盟
このなかで
結びついた青春たち
この街での出会いが
ぼくの生きる道を決め
仲間の人生をつくっていった
大学を出て
大阪に帰ったやつも
紀南で教師になった先輩も
東京に党の専従としていった夫婦も
そして
何組かの仲間はふるさとでない和歌山市で
恋をして、愛を育み
結婚をして和歌山にとどまった
それぞれが過ごした
同じ時
すべては
日本民主青年同盟の
旗のもと
ときには
歌声をかさね
笑い
また
苦しんでは涙を流し
そして
未来を語り
自分の将来の目標に目を輝かせ
ありったけをこめて
生きていた
ぼくたちの運動は
和歌山の歴史を拓く力となった
今もまだ
ぼくたちは、この同じ道を行く
【真理と自然観】
結論から言って、真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時、何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか、と。すると友人は、何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし、単純にからっぽという意味でもない。私という意識、世界という感覚そのものの原因のことである。この時、我々は『空・から』という言葉によって、人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化から、その裏側に真の形があることを理解した。そして、我々はこの世界の何処にも居ず、この世界・感覚・魂の納められた躰すなわちこの裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は、何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路、それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは、或感覚を再び具現させる基盤としての目的経路の原因・因子が再び具現する能力と可能性を与える機構、手段によって、再具現可能性という方向性を得たものである。志向は複数あり、意識中にある凡ゆる感覚的対象に支配される。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは、表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され、記憶の記録機構の確立された時点を起源として、意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し、再具現可能性を持つことが出来る場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でも、因子の具現に対応した感覚的対象(条件)がない場合はこの志向は生じない。但し、意識を介さず、機構に直接作用する物が存在する場合もある。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と、具現の方向を決定する志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は、過去の意識の有り様を何らかの形に変換し保存する記録機構を持ち、これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり、この志向が再具現の機構としての肉体に作用して変化を生じる。この為廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは、躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され、この志向が再具現の機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなく、その志向により然としてある意識と肉体を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』
然の理(ぜんのことわり)
自、志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)