時勢の悍馬に乗る人物

雑感

『「坂の上の雲」と日本近現代史』(原田敬一著)を読んだ。速読の本を読んでから3冊本を読んだ。読むスピードが少しずつ上がってきている。
この本を読み始めた時に、司馬さんの文学は、英雄史観であるかのような書き方をしたので、訂正しておきたい。
原田さんは、日本近現代史を専攻されている文学博士であり、かなり司馬遼太郎さんの本を読み込んでいる人だと思われる。
「司馬さんが、これらの有名な作品で英雄を主人公にしたのは、こうした歴史観や社会観を人々に持たせるのが目的だったのでしょうか。私はそうは思いません」と書き、司馬さんの文章を引用している。
「英雄ほど悍馬(かんば)に乗せられる。英雄とは時勢の悍馬の騎乗者をいう。西郷という人がそうであった。時勢の悍馬に乗り、二七〇年の徳川幕府をあっというまに打ち倒してしまった。幕府は時勢という悍馬に蹴散らされたのであって、西郷その人に負けたのではない。が、世間はそうは思わず、倒幕の大功を四郷に帰せしめた。」(「飛ぶがごとく」)

悍馬とは、性質の荒々しい馬。あばれ馬。あらうま。はねうまを意味する。見事な表現だと思う。司馬遼太郎さんは、「坂の上の雲」というかなり弱点を持った文学作品を書いた人だが、それ以後の日本の歴史については、優れた洞察力で時代の本質を見抜き、戦後の日本の平和を愛した人だった。
この本は、そのことを概観させてくれた。司馬遼太郎さんの本を読んでみたくなった。

ナポレオン

ナポレオンもヒットラーも時勢の悍馬に乗った一人だった。
反動的という点で安倍さんのことを少し考えたい。
歴史は反動的な人物を英雄であるかのように歴史の頂点に押し出し、個人の力が大きな役割を果たすような状況を生み出す場合がある。ファシズムの台頭には、それを生み出す経済的な要因があり、国民の中にそのような気分や感情がある。
安倍さんのような人物が、内閣総理大臣となり、一定の長期政権を形成している背景には、貧困と格差の広がりがある。日本における新自由主義的な経済動向は、国民の中に貧富の差を生み出し、貧困を押し広げ、持って行き所のないような怨嗟を広げている。
ネット右翼が増大しているが、多くの人は正体を隠して立ち振る舞っている。権力者が、日本の敗戦に対し、自虐史観だと喧伝し、日本人が敗戦でプライドを否定されたかのように主張すれば、そうだ、そうだと拍手喝采する。権力者が、アジア蔑視と日本人の優秀さを強調すれば、非常に強いナショナリズムが形成されていく。徹底的に攻撃できる敵を鮮明にし、自分たちの優秀さを強調してあおり立てる手法は、ヒットラーがユダヤ人を徹底的に迫害し、弾圧したやり方と酷似している。
自分たちの生活の中にある持って行きどころのない怨嗟を、政権についている権力者がすくい上げ、一緒になって日本人の優越感とその裏返しとしての他民族蔑視を繰り返すと、持って行き所のない怨嗟が解消されるかのような錯覚が引きおこされる。自分の置かれた格差と貧困という現実は変わらないのに、仮想敵をののしることによって一時的にでも溜飲を下げることができる。過激な主張、迫害的な主張を繰り返しても、強い権力者に我々は庇護されているというのが、倒錯した満足感になる。

靖国派という勢力を育成し温存するような仕組みが、経済の中に物質的な力として存在している。権力者とそれに迎合する民衆が、相乗効果を生み出している。このような勢力の中から安倍晋三という人物が時勢の悍馬に乗って力を発揮している。歴史上のあだ花が、狂い咲くように咲き誇って、一時代を不幸な状況に落とし込むのか、それとも真実に目覚めた人々が立ち上がって、野望を打ち砕いて新しい歴史の展望を開くのか。
時代はまさにその分かれ目で火花を散らし始めている。

他民族を蔑視し、好戦的にことを動かし、戦争がことを決するかのように振る舞う勢力は、現代日本において長く力を持たないだろう。アメリカは巨大な力を持って第2次世界大戦後、世界の頂点に君臨してきたが、相対的には力を衰えさせ始めている。資本を増大させ、格差と貧困を押し広げた新自由主義的な経済政策による世界史的な実験は、結局は資本主義が貧富の差と格差を押し広げる矛盾に満ちた社会しか構築しえないことが明らかになりつつある。資本主義は、マルクスの指摘どおり、資本主義自身の矛盾を拡大させて苦しんでいる。
時代はまだまだ紆余曲折を繰り広げるだろうが、資本主義的な矛盾を克服する新しいうねりが、新しい世界の新秩序とともに萌芽として生まれつつある。それがヨーロッパとアジアの中で育ちつつある。キーワードは平和と相互尊重だろう。ヨーロッパがギリシャ危機を平和裏に解決し、安定的に発展すれば、新しい展望が開かれるように思う。

アジアには大きな平和の流れがある。北東アジアにも同じような平和の流れを形成できれば、アジアにおける平和の流れは確かなものになる。この時期に、日本がアメリカの目下の同盟者として、アメリカの戦争に参戦していくのは、まさに歴史に対する挑戦、平和の流れに対する挑戦に他ならない。
日本がアジアを蔑視して始めたアジア太平洋戦争は、15年戦争を経て日本の敗北に終わった。戦争への暴走は結局日本を滅ぼした。日露戦争終結から数えると40年、侵略によって植民地を手に入れ、拡大に次ぐ拡大に明け暮れた日本は、アジアに対する唯一の侵略国として、蛮行を繰り返した。日本は再び、朝鮮や中国を徹底的に忌み嫌い、彼らが攻めてくるかのようにあおっている。しかし、アジアから見れば、戦後70年にして、日本が元の帝国主義的な日本に戻るように見えているのではないだろうか。

かつて自立した帝国主義であった日本は、70年を経てアメリカに徹底的に忠誠を誓う形で戦争に参加しようとしている。この姿は醜い。命令に従う家来である日本は、善悪の判断をしない。本国のアメリカが誤りを犯しても、日本には責任がないという態度を取っている。ベトナム戦争やイラク戦争に対する日本の姿勢は、悲しいほどひどい。自覚と責任のない国は、アメリカのパートナーにさえなれない。親分は徹底的に服従する子分に対し、対等平等の意識は持たず敬意を払わない。もちろん尊敬は絶対にされない。
欧米に憧れながらアジアを蔑視する日本という形を日本はいつまで続けるのか。
私たちは、姿も形も韓国人や中国人に似ている。日本人のDNAには、アジアの人々の遺伝子が深く刻まれている。日本の歴史も文化も朝鮮や中国をさまざまな形で受け入れてきた。日本の文化を語る時にこれらの国々から影響を受けたことを忘れてはならない。ぼくたちが書いている文字は、中国から得たものであり、文化には共通点がたくさんある。これらの国々と友好関係を結ぶことが、日本の平和にとってものすごく大切だということが、どうして分からないのだろうか。

安倍さんは時勢の悍馬に乗る人物の一人。ぼくは、多くの人々とともに、この悍馬を静めて平和の先にある新しい未来を見たい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明