議会広報、版下による校正第1回目

かつらぎ町議会

議会広報編集特別委員会があった。今回の議会広報は、印刷会社によって組まれた版下に基づいて校正を行うという作業だった。
手書きレイアウトを版下として組んでいただく仕事には、心底敬意を払いたい。
普段、自分でさまざまなレイアウトを組んでいる身としては、版を組む作業の重要性は身にしみて理解していると思っている。
申し訳なく感じるのは、自分たちでこしらえた文章に2度3度と手を入れて、文章を整形していくことが多いということだ。第1回の版下になる段階(今日の会議用のもの)では、まだラフスケッチの域を完全には脱していない。きれいに整形された状態で手を入れることに編集委員会は大きな価値を見いだしている。
自分たちのラフスケッチが、きれいな形になってきた段階で、かなり手を入れることによって、より一層イメージが鮮明になる。印刷会社からすれば、この段階でこれだけ修正が加わるのかという思いがあるかも知れない。
そういう点では、申し訳ないなと思うけれど、編集の作業工程としては、第1回目の版下については、かなり手を入れて修正することになるのはやむを得ないと考えている。おそらく、編集委員はみんな同じような気持ちをもっているだろう。

文章力を磨くという点では、努力には限りがない。本を大量に読むだけでは文章はうまくならない。これはぼくの持論だ。文章力を磨くためには、大量に文章を書く必要がある。読む行為と書く行為には深い関連があるけれど、大きな違いがある。書かなければ上達しないという問題が、文章力には横たわっている。
文章を書き込んでいない人には、いくつかの特徴がある。書き始めて句点で終わる文章を書くためには、精神の統一が必要になる。句点に至るまでかなり長い文章であっても、一読して意味がよく分かるものがある。こういう文章を書ける人は、書き始めから句点までの間、文章の着地点が変なところに行かないという点で、精神が統一されている。夜中、ねぼけまなこで文章を書いていると主語と述語が繋がらない文章になる時がある。それは、精神の統一に乱れが生じていることを意味している。

書き始めて句点で終わる文章の積みかさねによって、文章が構成されていく。区切られながら連続していく文章に味わいが出てくるかどうか。味わいのある文章を書きたいものだと思うのだけれど、それは、大量に書くことを通じて生まれてくるものだと思っている。物事には、量から質への転化という法則がある。一定の量をこなさないと質的変化は起こらないということを単純に信じている。

文章に対する感覚を磨くためには、書かなければならない。しかし、日常生活の中で大量に文章を書くという機会は少ない。文章を書いて生活している人々以外に、日常的に文章を書いている人は少ないと言うことだ。だからぼくはブログを書き始めた。書き始めて10年。結局この10年間、大量に文章を書く修業をしてきたことになる。

書いていて見えてきたのは、エッセイ、評論、小説等々、文章にはそれぞれ独特の特徴があるということだ。ぼくが毎日書いているような文章をどんなに書いても、小説がかけるわけではない。小説が実現している文章は、描写を通じて情景や人間の心理を物語とともに描くというものだろう。こういう文章は、小説という形を踏まえないと一生書かない文章だと思われる。エッセイは、小説と似通っている場合もあるが、視点は自分に置かれるので小説とは違ってくる。文学的な文章を書きたいのであれば、エッセイを書くのがいい。
ぼくが、今日書いている文章は、論考というたぐいのものなのかも知れない。こういう文章は、一番簡単に誰もが書けるものだろう。このような文章が書ければ、新聞のような文章は書ける。
いい文章は、起承転結を踏まえているというのは、大きな誤解だ。起承転結のような文章になっている物は少ない。かなり文章を書ける人でも起承転結を踏まえて書くのは難しい。起承転結という考え方が世に広まっていなければ、人々はもっと気楽に文章を書いたのかも知れない。

文章を書く。一晩寝かせる。もしくは数日間寝かせる。そうすれば自分の書いた文章でも客観視できるようになる。時間をおけば、自分の文章にも手を入れることができる。今日行った議会広報の編集も、時間をおいてそれぞれが書いた文章を校正する作業となった。前の会議から今回までの一定の時間が文章を見直す力を与えてくれる。新聞など毎日書かれている出版物は、複数の目によって校正がなされている。自分一人で行っているとどうしても文章を直せなくなってくる。
ただし例外は、「天声人語」や赤旗の「潮流」などのコラムだろう。一人の人が四苦八苦しながら毎日書いている。時間と勝負しながら完成度の高い文章を決められた字数の中に納めて書く努力は涙ぐましい。七転八倒の努力が、見事な文章の流れの中に見えない形で折りたたまれている。苦労はすっかり影をひそめ、実現しているのはきれいに流れる切れのある文章だ。

見事な文章という点でいえば、赤旗日曜版の最後のページのひと欄は、インタビューの文章としては最高の出来だと思っている。登場した人の言葉と地の文が一つながりになって書かれている。一言も登場人物に対し「○○さんはこう言った」というような書き方がされていない。一切そういう文章が削り取られている。このひと欄で書かれている文章を読むのが好きだ。芸能人や学者の方々が登場し真摯な努力が紹介されている。10月11日号に登場したのは、仲間由紀恵さん。読んでいると、この人の演技にかける真摯な気持ちが伝わってきて涙が出そうになった。
このひと欄の秘密を発見してから、ぼくの一般質問のまとめには、「東芝議員は」という言葉を一切書かなくした。それまでは、「東芝議員が『学校給食を実現する考えがあるか』と迫ると、町長は『はいあります』と答弁した」というように書いていた。こういう書き方で行くと、何度も議員名が出てくる。書く側にとっては、このような書き方は非常に楽だ。しかし、書き続けていると、どうもそういう文章が鼻につくようになって嫌になった。
日曜版のひと欄。文章修業のお手本の一つ。いつかこういう文章を自在に書けるようになりたい。


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Posted by 東芝 弘明