国民があって国(国家)がある

雑感

最近、Facebookに訪れた人の中に、国民主権を否定する考えに繋がる人がいたので驚いた。その人は、国民は、国があっての国民でしょうという言い方をされた。本当にそうなんだろうか。
「国(国家)があっての国民」という言い方を聞くと

「国破れて山河あり 城春にして草木深し」

という杜甫の『春望』が思い浮かぶ。日本が第2次世界大戦のとき侵略していった中国は、統一的な政権が崩壊していた状態だった。国としては形をなしていないという不幸な状態にあったけれど、国が破れても国民の生活や暮らしはあったということだった。国が滅んだとしても、国民生活は続いていく。これは間違いない。また、国が滅んでも国民が存在すれば、国は次第に形成されるということだ。つまり国民が存在すれば、国づくりはできるということに他ならない。

国家があっての国民というものではない。国民が存在してはじめて国ができるということだろう。
国民主権が確立した今日の日本でいえば、国民があって国家があるということだ。国民主権を貫かないような国家が誕生したら、アメリカの独立宣言が明確にしているように、国民が立ち上がって、国家をつくり変えればいい。
国民による国民のための国民の政治。日本でこの原則が実現して71年。国民主権の政治を獲得するまでの文字に刻まれた日本の歴史は、1300数十年以上ある。たかだか71年の歴史だけしかない国民主権を否定する考え方があるのはわかるが、国民が多大な犠牲を払って獲得した国民主権の可能性を、わずか70年で捨てることには合意できない。国民主権は始まったばかり。70年足らずの歴史の中で、本当の意味での国民主権がどこまで徹底され確立されてきたのか。

国民主権のものの見方考え方は、70年間の歴史の中で、国民の生活に染み込んできて、互いの人権を認め合いながら話しあいを通じて、合意を形成し前進する土壌を確実に広げてきている。ワンマン的な政治家や指導者ではなくて、協議をし合意を形成し、集団の力や個人の力を発揮して物事を成し遂げていくという仕組みや方法が育ちつつある。この努力は70年間の歴史の中で育ってきた小さな芽に過ぎない。これをもっと育てていくことに力を尽くす。ここに政治の課題もある。政治は、この面では最も遅れている分野の1つではないだろうか。


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雑感

Posted by 東芝 弘明