内容が削ぎ落とされるのはなぜか
憲法改正の論議もそうなのだけれど、日本の議論の仕方というのは、いつも同じように内容のないものになっていく。どうして、具体的な議論が抜け落ちて曖昧模糊とした議論になっていくのだろうか。
ぼくの住む地域は、吉野・熊野・高野という広い地域で世界遺産に登録された地域だ。世界遺産に登録されて10年以上になる。なぜこの地域が世界遺産に登録されたのか。10年も経つのに世界遺産になった意味を知っている人は少ない。根本的な意味を知らないまま、多くの人は暮らしている。
世界遺産に登録された意味をかつらぎ町の子どもたちは、どれだけ理解しているだろうか。小学校や中学校でどのように世界遺産のことを伝えているのだろう。学校の先生方はどう理解しているのだろう。中身の濃い話が多くの人に伝わるのではなくて、話の内容がどんどんあいまいになって伝わっていく原因はどこにあるのだろう。この話は、日本とは一体何なのかということに直結している疑問だと思っている。
議論の仕方がへただという傾向と内容が削ぎ落とされていく傾向とは、深く絡み合っているのかも知れない。
全ての考え方を展開することはできないので、議論の仕方にだけ触れておきたい。
民主主義的な議論というのは、何だろう。率直に意見交換するが意見の違いは認め合う。認め合った上で合意を形成する。この合意形成というのは、意思統一とは意味合いが違う。意思統一というのは、意見を一つにまとめるというものだが、合意形成というのは、譲り合う気持ちが入っている。意見の違いはあるのだけれど一致点を見いだしていくということではないか。
日本人の議論は、えてして意思統一型の議論が多かったのではないだろうか。相手の意見を認めるのではなしに、説得し納得させて、意見を一つにするというような傾向だ。そのような議論というのは、対立が決定的になると折り合いがつかなくなる。意思統一どころか決裂することの方が多い。議論をすれば喧嘩になる、物別れになるというのは、意思統一型の議論が決裂する場合の結末ではないだろうか。対等平等でない場合は、力の強い者に屈服する形で意思統一がなされる場合もある。
こういう議論を重ねていると、議論というものは楽しくなくなる。テレビドラマの中の家族の対立劇は、まさにこういう議論のオンパレードではないだろうか。
しかし、そういうような議論の仕方は、本当に民主的なのだろうか。個人の尊厳を大切にする社会というのは、相手を徹底的に説得したり納得させるような社会ではなくて、相手の意見を尊重し、お互いの共通点とともに違いを認め合いながら、同時に一致点で合意を形成するというようなことが大切ではないだろうか。
合意形成というのは、合意していない部分を尊重しながら一致点で合意するというものだろう。
ウキペディアには、「合意形成(ごういけいせい、英: consensus building)とは、ステークホルダー(多様な利害関係者)の意見の一致を図ること。特に議論などを通じて、関係者の根底にある多様な価値を顕在化させ、意思決定において相互の意見の一致を図る過程のことをいう」とある。多様な価値観を顕在化させて、相互の意見の一致を図るというのは、価値観の違いや利益の違いは、ありつつ、それを互いに確認しあいながら、つまり違いを認め合いながら、一致点を見いだしていくというものだ。
ぼくの思いを書いておこう。
「みんなの意見を聞いていたら、意見がまとまらない」という言い方がよくなされる。
「みんなに意見を出してもらえれば、意見は一致しやすい」というのはまだまだ少ない。
感覚としては、意見をたくさん出してもらいながら、意見を一致させるようにしたいと思っている。それはできると思っている。その際に大切なのは、合意形成なのだと思う。ファシリテーターの技術でいえば、多様な意見を出してもらったあと、合意を形成するのは誰かといえば、それはリーダーでも司会者でもない。意見をまとめるのは、参加者だということになる。
「さて、いろいろな意見がでました。みんなでまとめてください」
会議で集団の英智に依拠することができるかどうか。それがファシリテーターに求められている。その際に合意形成とは何か、ということを深く知っておくことが大切になる。
日本人は、集団における議論の仕方を十分学んでこなかったので、内容のある議論を楽しむことがなかなかできない。それが内容がどんどん削ぎ落とされる一つの問題なのかも知れない。まあ、これは単なる思いつきなので、さらに深めていきたい。








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