会議における議論の仕方

雑感

一般質問関係の論文「【連載】質問力で高める議員力・議会力 一般質問のパワーアップ」(土山希美枝龍谷大学政策学部教授)を読んでいると、行政の「絶対・無謬」論の話が書かれていた。「絶対・無謬」論というのは、誤りを「絶対に認めない」、行政が「誤りを犯すことはあり得ない」というような傾向だ。
議員をしていると、こういう壁に良くぶち当たる。この問題で誤りを認めたら何もかも崩れ去るかのような姿勢で臨んでくる場合がある。あとで議事録を読み返すと誤りを認めていないで、その一線を守るために踏ん張っているだけのものもある。
かつらぎ町は、予算が底をつくと残業代を支払わない自治体だが、口が裂けても「残業代を支払っていない」とは言わない。「運用がうまくいっていない」という言い方をしている。残業代は、直近の給料の支払いの時に支払う必要があるのに、平日の残業についても、代休を取るようにして、年度を超えて繰り越していく。あたかも携帯の無期限繰越のように。この無期限繰越は、退職時に「寄附」されておしまいになる。
こういうことを平気で行っているのに、「運用がうまくいっていない」と言う。労基局が管轄外の自治体なので、このような無茶苦茶なことがまかり通っている。
しかし、この問題について「運用上の誤り」を認めると解決しなければならなくなるので、「誤っている」という率直な見解は返ってこない。真面目な職員に問いかけると「無言」という形で「返事」が返ってくる。

論文では、行政も議員も政策には正解がないということが強調されていた。つまり政策というのは、立ち向かうべき問題点や課題というものに対する解決を目指した方策なので、うまく行く場合もあれば不十分に留まる場合もある。そういう立場に立てば、政策というものは、たえず改善が必要だということになる。「政策には正解がない」という共通認識の上で議員と行政が議論していくことが大事だというのは非常によく分かる。

この論文を読みながら、会議における議論というものを考えた。
発言が正しいかどうかという議論がある。相手に対して間違っていると思った場合は、相手の発言を攻撃する場合がある。正しい、正しくないということを巡る議論になって、そういう場合の議論は対立してしまう。この前の議会の委員会でぼく自身、こういう議論に陥ってしまった。
相手の意見が正しいのか、正しくないのかという議論はすべきではないと反省している。
そうではなくて、正解のない政策課題に対して、如何にしてできるだけより良い方向に接近するのかという観点で議論を「深める」ことが重要になる。その際、相手の脳みそを借りて一緒に問題や課題について考えを深めるプロセスというのは、行きつ戻りつの議論になる。その場合、明らかに誤解して発言したり、確信をもって発言をしたとしても、議論の中で認識が深まって、考え方が発展したり、自分の考えの浅さや誤りに気がついたりすることは、大いにありうる。
誰がどのような発言をしたということが重要ではなく、互いの発言によって認識が深まっていき、AがBやCに変化すること自身を大切にするというような会議になるのがいい。しかし、このような会議を組織するのはなかなか難しい。
相手の発言の不十分さがある場合は、多面的な議論ができるようにして、個人の意見を追及するようなことをせず、議論を深めるということが大事なのかも知れない。


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雑感

Posted by 東芝 弘明